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「デッド・トラップ」

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 腕組みして待つエリノアは、挑む様な蒼の目をナギに向けて柱に寄り掛かっていた。
 相変わらずのその美貌には、先程講義室の前で見せた愛想の良い微笑はかけらもない。
「カイと何の話してたのよ」
「何って」
 いわれのない敵愾心をまともにぶつけられて、ナギは思わず眉をひそめた。
「ノイマン氏の講義のこと、だけど」
「それだけ? その割には随分と長い間話してたみたいじゃないの」
 まさかずっと様子を伺っていたのだろうか……半ば呆れながら、ナギはひとまず彼女を無視して食堂のある3Fに向かおうとした。
 いや。
 進む筈、だったのだ。その言葉が耳に届かなければ。
「あたしの薬、どうして持っていっちゃったの? ナギ」
 すれ違いざまに掛けられた冷ややかな声。
 一段だけ昇って、ナギは振り向いた。
 しっかりと自分を見据える蒼い瞳に真正面から向き直ると、今度こそ彼女を無視出来なくなる。
「一つだけなくなってたわ。貴方が持って行ったんでしょう、あれはただの鎮静剤なのに」
「何の、こと」
「別に薬の一つや二つ、減ったって困りやしないのよ。でもどうせなら、今度は貴方の薬と交換ってことにして貰いたいわ……貴方が毎日必ず飲んでるあれとね。どうしても処方が分からなくて苦労してるから、一つあれば助かるんだけど?」
「毎日って」
「その人格を保てるのも、あの薬があるからでしょう。貴方しか……唯一の記憶操作の成功例しか、持てない薬。教官特製のあれ」
 すっと、無意識の内にナギの手が腕の中のペンを掴む。
 一見普通のペンだが、使用法によっては暗殺も可能なペンナイフである。
「誰か人違いをしてるんじゃない? そんなことで呼び止められるの、凄く迷惑だわ」
「はん、ご立派なこと。最後までとぼけるつもりなのね」
「何のことなのか分からないと言ってるの」
 相変わらずナギの口調に乱れはない。けれどその手は確実にナイフに伸びて、急所を知り抜いた緑の瞳は穏やかに光りながらも、エリノアの首もとを見つめている。
 ……視線に気付いて、エリノアの不機嫌そうな顔にようやく微笑が浮かんだ。
「ねえナギ。あたしの顔、綺麗だと思わない?」
 白い美貌を彩る「笑み」。
 目を凝らせばかすかに見えるその掻き傷も気にならない程、確かにエリノアの顔は綺麗だった。
 けれどそれがどうしたと言うのだろう。今までの会話と何の繋がりもないその言葉に、ナギは沈黙を守った。
 エリノアも返事を期待していた訳ではないらしく、階途中の窓際にあつらえられた小さな丸鏡の前にこつんと額をぶつけて、再び口を開く。
「ここに入学して来た時、手紙を貰ったの。あたしがどれだけ綺麗なのか、そりゃあこと細かく書いてあるラブレターをね」
 含み笑いと共に鏡から離れる顔。
「綺麗な顔と白い肌、金の髪、蒼い瞳……でもね、ナギ。あたしはこの顔が、全てが」
 唇に当てられた指先が、そこから左にそれて目もとから頬をなぞる。
 何度も、何度も、少し異常な程の神経質さで。
「大っ嫌いなの」
 吐き捨てる様な言葉。
 と同時にようやく気付いた、エリノアが続けて触れるそこが、例の引っ掻き傷のある場所なのだと。
 おぞましそうに眼前の鏡に映った自分を眺める硝子の様な瞳。
 そこに込められた本心からの憎悪に、さしものナギも言葉を失った。
「あたしのことを忘れるなんて許さないわよナギ。いくら記憶操作のせいだからって、そんな言い訳聞かない。あたしをこんなに目茶苦茶にしておいて、罪の意識まで消してしまえるなんて狡いじゃないの。そんなの……そんなの認めないわ!」
「あなたは、誰なの?」
 あくまで一般生徒を装う筈だったのに、ようやく出たその言葉はいつもの柔らかい調子を失って、堅く、探る様な声になっていた。
「誰。どうしてそんなことまで」
 ナギの腕の中のペンナイフが参考書の影で刀身をあらわす。
 するとその気配を察した様に、エリノアがこちらを振り返った。
「ようやく顔色が変わったわね。あたしがペルソナの極秘研究について知っているのがそんなに不思議なの? 記憶操作のことを」
「……無事に仕事を終えてここを出たいのなら、その言葉を何度も口にするのは止めた方が良いわ。必要がなければ私の方から寝首をかく様な真似はしないから」
「必要がなければ、ね。必要は今出来たんじゃないの? 絶対に保持しなければならない秘密について詳しい人間、それだけで抹殺理由になるもの……それとも、見逃すつもり?」
「そうしてあげても良い。仕事が終わるまで」
「仕事はあたしにもあるのよ」
 かつんと、と靴音をたてて、エリノアはナギに一歩近づいた。
 ナギは動かない。右の手は参考書と胸の間に隠れたまま。
「重なってなければ良いわね。あたし、ナギには絶対に負けたくないから」
「……私達、以前どこかであったかしら」
 いぶかしむ様に、息がかかる程近づいたエリノアの瞳を見つめる。
 かすかに潤んだ海の色。嵐を予感させる空の色を。
「さっきの言葉……私が貴女を目茶苦茶にしたと言ったけど、あれはどう言う意味なの」
「……記憶がなくなるって不思議なのね」
 エリノアの手がナギの頬に触れる。
 驚く程白いエリノアの手は、そうして重なると、ナギのかすかに色付いた肌に良く似ていた。
 不自然な白が、ではなく、そのきめ細やかさが。
「自分の中の証、他とは決して共有できないもの。なのにそれが失われてしまうなんて、それじゃ自分が誰なのか分からなくなってしまうじゃない。自分を左右する“経験”すら作られたり奪われたりするなんて、そんなことをされてもまだ人間で居られるのかしらね」
「……人間よ。私は確かに」
「そう? 今こうしていることも、操作されればなくなってしまうのに? 今感じていること、今思ったこと、その全てが失われてしまうかも知れないのに?」
「全てって、何。どこからどこまでが全てなの。貴女はそれを知っているの」
 ふっと、エリノアが息を呑んだ。
「何、ですって」
「事情も分からないまま、訳の分からない感傷に巻き込まれるのは迷惑だわ。貴方がどんな仕事を請け負っているのかは知らないけど」
 じっとエリノアの瞳をねめつけると、ナギはその言葉を、まるで噛み締める様にはっきりと呟いた。
「貴女、向いてない。感情のコントロールもうまくいかない人間をここに寄越すなんて、どうかしてるわ、貴女の組織」
「な……っ!」
 エリノアの頬が一瞬にして憤りに紅潮した。
「感情の起伏が激しく、それを抑えることも出来ない。図星を指されてかっとするのは普通の人間の話。感情を切り捨てることも出来ないでエージェントを気取っているなら……」
 言い掛けて、ナギは口をつぐんだ。
 この言葉を。ナギが言うのか、今度は。
(切り捨てられなかったのは、私の方だったのに)
 感情を切り捨てることさえ覚えれば、心を捨てる必要はない。
 組織が求めるのは不自然さを持った人形ではなく、自分の意思で考え、感じ、普通の子供の様に……あるいは民間人の様に行動できる存在なのだ。
 ……ナギはその点において余り優秀な生徒ではなかった。
 無論、一般のエージェントのタマゴ達に比べればその成長は確かに秀でていたのだろうけれど……彼女には勝てなかった。
 絶対に負けられないと、そう感じていたあの少女には、長い間勝つことが出来なかったのだ。新たな研究実験が行われ、その被検者として選ばれるまでは。
「ナギ!」
 鋭い声にはっとした。
 逆上したエリノアが手を振りかざすのが視界のはしに映る。
 けれど開いたまま瞬き一つしないそのナギの緑の瞳の前で、ふりかざされた手はそのまま動きを失っていた。
「……馬鹿、んなとこでキレるな!」
「カイ」
 折れそうな細い腕を掴む手。
 突如陽光を背に現れたその姿に、ナギはぞくりとした。
(気配を感じなかった)
 確かに、そこにいたのはカイだった。ほんの数分前まで一緒に庭で話していた少年だ。
 だが空気が違う。
 先程までは少し癖のある性質の少年とだけ認識していた筈が、今その身体から漂う空気は明らかに。
(エージェントの)
 同類の匂いだ。分かる。
 だがいつナギに追い付いたのだろう。いつ校舎に入って来ていた?
 幾ら油断していたとは言え、ここまで綺麗に気配を感じ取らせなかっただなんて。
 かすかな驚きを感じるナギの前で、カイは不機嫌そうにエリノアを睨んでいる。
「お前な、何でそう調子良く喋んだよ」
「だ、だって、カイ」
 逆上していた筈のエリノアは、ようやく離れたカイの手に、らしくない慌てた口振りで顔色を変えると、
「ナギが喧嘩売ってきたのよ、今のは!」
「……そう言うこと、だったの」
 冷ややかな声がして、一体誰が喋ったのだろうといぶかしんでいたら、それは自分の……“ナギ”の声だった。
「貴方もそうなのね、カイ。今頃気付くなんて私も大概だけど」
「そりゃまあ仕様がないだろ。分からない様に行動してんだからな」
「でも貴方は知ってたんでしょう、私のことを。だから接触を持った……どうしてなの」
「順を追って話すつもりだったんだけどな。それをこいつが思いきり不審がられる様な真似して、折角の俺の努力を無にしやがって」
「良いじゃない。どうせいつかは話すことだったんでしょおっ!?」
「……そー言う訳で場所変えたいんだけど、あんた生徒会の友達が待ってんだろ? だから時間の方も変更するってのはどうかね」
 ええ、とナギは素直に頷いた。
 今は確かに人の気配はないが、いつ誰がこの場に現れるか分からないのだ。
「それじゃあ今日、日付が変わる直前に」
「場所は」
「譲歩して、あんたの部屋にしとくよ。別に俺達の部屋でも罠張ったりはしないけど」
「ちょおっとカイ! どうしてこっちがそんなに気ぃ遣わなくちゃいけないのよ! こっちは親切で……んがもが」
 叫ぶエリノアの口もとを押さえると、カイは確認する様にナギを見る。ナギは頷いた。
「分かったわ。それじゃ、私の部屋で」
「決まりだな」
「その前に」
 ナギの緑の瞳が細められた。
 声は低く、確かにあの“ナギ・倉宮”からは想像も出来ない様な声音になっている。
「判断材料が少なすぎるわ。私が貴方達を信用して良いのかどうか」
「だ、ろうな。俺達がどれだけ信用出来ないもんか、あんた自身が一番良く知ってることだ。部屋に戻ったら、ハンって名前を調べてみろ。裏のつながりは取れないだろうけど、ペルソナのデータバンクになら案外詳しい説明が入ってるかも知れないぜ」
「……ハン」
「最大譲歩だ。俺達の重要データを渡したんだからな」
「それでもまだ疑うって言うなら、後は自分の心に聞けば良いわ」
 不意に。
 聞き手に回っておとなしくしていたエリノアが、突き刺す様な早さで呟く。
「メイって名前がどっかに残ってる筈よ、実験でガタのきたその心の中にもね」
「……じゃあ、今晩また」
 やがてぽつりと言うと、カイはナギの横を抜けて階段を昇って行った。
 視線だけでその姿を追ったナギは、そこで立ち止まったまま自分を見つめるエリノアの姿に気付く。
 不思議な瞳の色だった。問いかける様な、責める様な、哀れむ様な……憎む様な。
 突然、ナギの頭はひどく混乱する。
 耳鳴りと頭痛。
 突然の。
 マグマの様に急速に熱くなった脳裏で、何かどす黒いものが蠢いている。
 これは何だろう。
 何か。
 あの時の、炎の色。炎?
 ようやく我に返った時、もうそこにエリノアの姿はなかった。階段の中央に一人たたずみながら、ナギはそっと喉を押さえる。

 ……感情の渦を秘めた蒼の瞳が、いつまでも瞳の奥から離れなかった。





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