デッド・トラップindex > 15

「デッド・トラップ」

<14>
 頭痛、がする。それから吐き気。
 喉が詰まってうまく呼吸が出来ない……眩暈。
 ぐにゃりと歪んだ景色は膜を張った様な視界の中で色を失い、更なる嘔吐感をナギにもたらす。
 口を大きくあけて息を吸い込もうとしたけれど、酸素がうまく入ってこない。
 汗のにじんだ額をどこだか認識出来ない布の様なものにこすりつけて、ナギはうめき声を洩らした。
 薬が切れ、指先の痙攣と悪寒などの自覚症状が表れ始めたのは夕方になってからだった。
 脳裏に浮かぶ記憶が混乱し出したのはそれからまもなくのことで、記憶の混乱どころではない、自分の名前すら失ったナギは、めまぐるしく変わる自我と向き合っていた。
 苦しい、にがい、痛い、熱い、悲しい。
 泣いているのは小さな子供。緑の目をした可哀相な子供。
 あれは誰。
 こども。
 おんなのこ。
 私の知らない、誰より知ってる子。
(駄目、だ。うまく……コントロールが)
 痙攣する手をベッドに寝そべったまま伸ばす。サイドテーブル上にある薬が遠く、どんどん暗くなる視界の中で身体ごとどこかに放り出された様な感覚が広がっていた。
 忘れるな。私は。私はナギ。ナギ。
 急に男にのしかかられて、ナギは悲鳴を上げた。
 押し退けようとして逆に何度も顔を撲たれる。荒い汚い息。熱い。
 もう一度悲鳴を上げて突き飛ばした。そのまま枕の下の拳銃で眉間を撃つ。
 飛び散る血。血に染まった男の顔に唾を吐き掛け、ナギは笑った。艶然と。
 金も払わずに何度も来やがって。親父だからってタダでファックだとふざけんな……泣いていた。泣いたのはお母様が亡くなったから。世界に私とお母様と二人きりで、なのに大切なお母様が亡くなってしまった。私には他に頼る人がないのに。
 お父様はお母様と同じ病気で半年前に亡くなったばかり。両親と旅行に出る為にドーム間を移動する筈が、移動車が壊れてしまって。
 どうか私をここに置いて下さい。明るいのは太陽の光ではなく眼前に広がるネオンの為。ドームの外で育ったので人工の明かりを見るのは初めてだった。何て綺麗なんだろう。この胸に広がった思いは多分、一生忘れられない。
 父は私の自慢です。ナンの官僚の一人で、母の手作り料理がとてもおいしい。だから一度家にいらして下さい。
 がん、と衝撃があった。伝わるのは振動。
 忘れるな。いつでも頭の中でトリガーを引ける様にしておくこと。どんな相手でも平静に撃てるなら、お前はまだ大丈夫だから。
 初めて銃を撃った時、首にまで伝わる衝撃に泣きそうになった。
 重い銃は両手に持ってもきちんと支えているのが難しく、最初は標的に当てることが出来なかった。
 それでも、標的に照準を合わせて撃つ。
 倒れたのは少女。額に当たったと思ったけれど、ベルデの命令通り外れていた。
 綺麗な黒髪が流れて血の色と混じり合う。緑の瞳もその髪の色も何もかもナギと同じ少女。
 そこは廃墟だった。ふらふらになって普段の逡敏さを失っていた少女を、ナギは人目を引くビルの爆破跡まで追いやってから、撃った。
 わざわざハンの近くで事を起こしたのは、少女がその組織と上手く接触出来る様に考慮した結果だったのだ。
 やがてちらほらと炎が流れ出す。
 照り付ける熱が辺りを囲み、やがてナギは少女に背を向ける。
 捨て石になった少女はナギと同じペルソナのエージェントだった。同じ様に育ってきた少女……メイ。



 ナギの頬を伝った涙を、カイはそっと指ですくった。
 無理に飲ませた薬の効果がようやく出てきたのか、うつ伏せに眠る少女の表情はとても穏やかになっている。
 苦しまぎれに暴れた傷が、ひどく痛々しく見えた。
 ベッドに腰掛けてナギを見下ろしていたカイは、添えていた手をナギの頬から離して溜息をついた。
「こんな風にしないと、お前の中には何も残らないんだな……」
 ドアの前には、じっとその様子を眺めるエリノアの姿がある。
 迷う様に右手に握った瓶を振っていたが、その中にはナギの薬が入っていた。
 思案げに揺れる蒼の瞳には、水の様に静かな光が宿っている。
「ねえカイ、教えて。あの時カイがあたしを助けてくれたのは……名前をくれたのは、同情したから?」
「…………」
「ナギにそうしてチャンスをあげるのも、同情してるから? ペルソナを憎んでるから、その被害者のあたし達を哀れんでるの?」
「だと思うか?」
 逆に問われて、エリノアは俯いた。
「分かんない。けど、同情でも構わないの。あたしは嬉しかったもの、カイはあたしの顔を見て何も言わなかったし、あたしを助けてくれた。ペルソナから、それに自分自身から」
 ……何度も何度も嘘を重ねて、やっとほんとうになる。
 記憶操作を重ねるうちに、被検者の心はからっぽになるのだと、エリノアは言う。
 インプットされた記憶と経験ばかりが積み重ねられて、自分の心は年を取らないから。
 悲しみも喜びも全て偽りのデータが吸い取って、後に残るのは時間を止められた心だけだから。
 何もない真っ白の自分に、ようやく時間が戻ったのはカイと出会ってからのこと。
 だから記憶操作の副作用に苦しみながらも、今日まで命を断たずに生きて来れたのだ。
「ナギはね、昔から自虐心の強い子で、綺麗ごとに振り回されていつも自分を偽っていたの。だからどんな訓練でも成績を上げることが出来なくて……馬鹿な子って、思ってた」
 手の中の瓶をぐっと握り締める。
 ナギの苦しむ様を無言のまま見つめていたエリノアの横顔は、ひどく暗かった。
「記憶操作の話が出て、結局自我の強かったあたしの方が劣等生になっちゃった。選ばれたのはナギ。でもきっと……ナギもあたしも、最初から負けてたのよ。ねえ? ナギ」
 カイはベッドの上に横たわる華奢な姿を再び見つめる。
 ナギの意識が戻っていたことには、とうの昔に気付いていた。
「……何故、違うの。髪の色も、目の色も。顔だって……貴方はメイなんでしょう」
 かすれた声が枕に埋もれた唇から漏れて、エリノアは目を眇めた。
 泣きそうな顔だった。
「あたしの顔はね、もうないのよ。あんたと同じ顔だったのに、ペルソナから逃げる時に焼いてしまったから。ハンのドクターが整形してくれたけど、黒い人工頭髪のストックがなくてこんな髪の色になったわ」
「瞳は……コンタクト?」
「顔を焼くときにプロテクト(耐熱効果用眼薬)を挿した副作用で、色素が変化したのよ」
「私が撃った後に顔を焼いたのね。そんなにまでして、ペルソナから逃げたかったの」
「逃げたかったわ。あたしは本当のあたしを取り戻したかった。なのに違ったのね。あれは全部ペルソナの罠だった……」



 揺れるのは過去。揺れるのは記憶。
 どうして忘れてしまえるのだろう。つい昨日のことも何年も前のことも。
 ……心に去来するのは皆、同じ鮮やかさだったのに。








page14page16

inserted by FC2 system