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「デッド・トラップ」

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「ナギ!」
 雑踏の中、名前を呼ばれてナギは振り返る。
「ナギ。良かった。捜したのよ、貴方ったら折角部屋まで迎えに行ったのに、もう出てしまった後なんですもの」
「ミストリア」
 生徒達が行き来する中、講義室前の廊下に立つ補佐役のクラスメイトを認めて、ナギは小さくその名を呼んだ。
 転校初日、ノイマン氏の講義を目前に控えて、広い廊下は興奮した生徒達で埋め尽くされていた。
 始業までまだ時間に余裕があることを考慮しても、彼らがいかにノイマン氏の講義に期待を寄せているのかが良く分かる。
「貴女もこの講義を取ったのね、ミストリア」
「そうよ。ノイマン氏の講義を避ける人もいないだろうから、せめて初日位は一緒に登校しようと思って……すれ違いにならない様に余裕を持って迎えに出たつもりだったのに」
「ご免なさい。貴女が来てくれるって知ってたなら、緊張してあんなに早く部屋を出たりはしなかったんだけど」
 心底申し訳なさそうに謝罪したナギに、ミストリアは顔を寄せて、気まずそうに囁いた。
「実はね、ナギ。そのノイマン氏の直接講義のことなんだけど」
「そんな風に教室の入口で話してちゃ、邪魔になるわよ」
 軽やかなソプラノの声が、ミストリアの言葉を遮ったのはその時だった。
 振り返った先には鮮やかな微笑。果たして参考書の類はどこに置いてきたものか、そこに手ぶらのエリノア・メーベが立っていた。
「エリノア、さん」
「ナギ・倉宮って貴方よね。一昨日は助けて貰って本当に有難う。カイが礼だけ言っとけってうるさいから、朝一番で来てあげたのよ」
 とても礼を言っているとは思えない口調でそう告げて、エリノアは再び微笑んだ。
 そう言えば真正面からエリノアの顔を見るのは初めてだと、ナギは思う。
 柔らかそうな金の髪と青い瞳。顔にかかったショートの髪から覗く白い顔は整い過ぎる程整った美貌で、表情を作っているのは意思のこめられた二つの瞳。
 今は神秘的にすら見える輝きを含ませて、真正面からナギを見据えるエリノアは確かに綺麗だった。
 初めて見た時にあった無数の顔の掻き傷も今はすっかり消え失せて、そうしていると苦しみもがいていた先日の彼女の姿がまるで嘘の様だ。
「それにしても、ミストリア。貴方までノイマン氏の講義を取ってたの? それともナギの付き添いかしら」
「まさか。私個人で講義を取ったの。エリノアも?」
「ま、話のネタにね。ああ、そう言えばカイもこの講義を取ってるのよ、ナギ。中で見かけたら声でもかけてあげたら? 貴方のこと、随分気にいってたみたいだから」
 話すエリノアに周囲の生徒達の視線が集まっている。
 それだけで、この学園内でのエリノアの立場が分かる気がした。
「それじゃそろそろ中に入るわね。二人共、いつまでもそんな所にいたんじゃ、良い席取り損ねるわよ」
「あ、待ってエリノア」
 立ち去りかけたエリノアを、今度はミストリアが呼び止めた。
「貴方と同室のルティのことなんだけど、彼女、健康上の問題で退学が決まったのよ。今度正式に通知が来るんだけど」
「へえ……随分長い間医務室に寝泊まりしてたから、どうしたのかとは思ってたんだ。とりあえずルティに会ったらお大事にって伝えといて」
「まあ、エリノアったら」
 目を細め、頬にかかる内巻きの金髪を指でとくと、エリノアはにっこり笑って講義室の中に入って行ってしまった。
 ルームメイトが退学になると聞いても、綺麗な微笑には一点の曇りもない。
 その態度にミストリアはひどく憤慨した様だった。
「彼女の同室の子、どこか悪かったの?」
「ええ……一月前位から寝込んでたの。結局病状が芳しくなくて、実家に戻って療養することになったらしいわ」
「そう、お気の毒に……。さっきのエリノアさんの態度、少し冷たく感じたけど」
「彼女の悪い癖ね。何でも突き放して言うのよ、関心のないことには徹底して無関心。でも意外だわ。もうエリノアと友達になったのね、ナギ」
「友達だなんて。今もほとんど声が掛けられなかったのに」
「彼女、気は強いけど勉強も出来る優秀な生徒だし、それにあの顔立ちでしょう? 男子生徒だけじゃなくて女生徒の間でも人気があるのよ。ただ……異性交遊が少し過ぎる所が難点だけど。さっきのカイって、編入生のベルナさんのことかしら。これ以上悪い噂が立たなきゃ良いんだけど……」
 相当惨々たる噂を流されているらしい。
 心配そうなミストリアの声に、ナギは思わず苦笑した。
 それから表情を曇らせて、
「ねえミストリア、ルティさんて人のことなんだけど。病気、そんなに悪いものだったの?」
 ナギの不安げな様子に、ミストリアはっと言葉を詰まらせた。
「ご免なさい、不用意なことを言ったわ。でも安心して頂戴、感染の疑いがないことは既に調査済みなの。そう言ったケースは、大抵生徒会のブラックリストに入るから」
 壁際に寄ると、ミストリアはナギに顔を近づけながら小声になる。
「だから、心配する必要なんてないのよ」
「ブラックリストって素行調査の? 病気になっただけで、チェックされるの?」
「ほとんどの生徒は知らないことだわ。ルティの不審な病気のことも含めてね。でも……分かるでしょう? この隔離国家の有史以来人々の病への恐怖は並大抵のものじゃない。だからこそ、寮生活での衛生面に関しては厳しいチェックが入るのよ。ルティが寝込んでから、学園側は最先端の医療技術を駆使して治療に当たったし、検査も続けた。結果は肺炎だったわ」
「療養する間、休学には出来なかったの?」
「無理ね。病気で長期療養した、なんて知れ渡れば、この学園には残れないわ」
 徹底的な排除。
 そのミストリアの言葉に、ナギは忌むべき恐ろしい病の名を思い出す。
 SOTEウイルス。
 発生原因も発生場所も未だ謎とされているウイルス、人々の心に刻み込まれた恐怖の名。
 ワクチンが出来た今でも、人々はその名を聞くだけで身を震わせる。
 あの悲劇から三十年が過ぎた今尚ドームの外に出る人間の数は極端に少ないし、糖タンパクの変異の法則性を見抜いたワクチンを接種して感染の恐れがなくなっても、人々はSOTEウイルスに逃れられない悪魔の姿を重ねていた。
 それにしても不審なのは、病に倒れたのがエリノアの同室生であると言うことだった。
 奇妙な行動を伴う精神病を患っているエリノア、彼女は以前にも何か問題を起こしたのだとカイが話していたが、それはもしかしたら、ルティと何か関係があるのではなかろうか。
 くすねてきてからすぐに調べたエリノアの薬は単なる(その特効性についてはともかく)鎮静剤だった。
 しかし果たして彼女の部屋で見た薬全てが精神安定剤だったのか、そして仮にそうだとしても何故あれだけの種類の精神安定剤が必要なのか……。
 エリノアの起こした“騒ぎ”について、ミストリアにそれとなく尋ねようかとも思ったが止めた。
 講義の時間が迫っている。
「そろそろ講義室に入った方が良いみたい。ミストリア、もう席は取ってある?」
「いいえ。皆躍起になって席取りに励んでたみたいだけど……でもね、ナギ」
 しばし躊躇し、やがては扇状に並んだコンピュータ席に向かうナギを、ミストリアが呼び止める。
 不思議そうに、ナギが振り返った。
「どうしたの?」
「……どうせもうすぐに分かってしまうことだから、今言うわ。今回の講義なんだけど」
 辛そうに、その言葉を口にする。
「中止になったの、直接講義。モニター使用の通信講義に変更になったのよ」





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