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「ジリエーザ」

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 ベルデ・シュミテンとの面会を申請していた俺に秘書から連絡が入ったのは、申請から実に二日後のことだった。
 ペルソナの持つ役割は、昨今ではただのエージェント供給組織と言うだけではなく、その進んだ化学設備や研究成果を含めて限りなく広がっている。
 だが現在ペルソナを運営管理しているのは事実上その創設者であるベルデ・シュミテンただ一人であり……優秀な補佐を取り揃えているとは言え彼が多忙なことに変わりなかったから、いくらスケジュールチェックをふまえた上での申請だったにしろ、俺自身ここまで早く面会がかなうとは思ってもいなかった。
 指定された面会場所に向かった俺は、会議用に定められたその広い場所に入った途端、ライトの落ちた室内にどきりとして足を止めた。
 何か電子音の様なものが聞こえて、すぐに電子ボードの上に柔らかい光が落ちる。
「……失礼します」
 少しばかり遅れてそう断った俺に、投影器の横に立つ気配はゆっくりと笑んだ様だった。
「久しぶりだね、トキ。あれから三月になるが、ここにはもう慣れたかね?」
「まだ分からないことが多すぎて戸惑っていますが」
 声の主は勿論ベルデだった。
 物腰も柔らかく穏やかなのに、不思議と彼から漂う威圧感が俺をひやりとさせる。
 いや……もしかしたらそれは畏怖とも呼べただろうか。
 人は理解の範中を越えたものにこそ恐怖の念を抱くものだが、彼の持つカリスマ性こそが形のない不理解さを伴って、隠しようのない威圧を漂わせてしまうのかも知れない。ふと、そんな風な思いに囚われた。
 どちらにせよこれだけの組織を総べているのだから、彼がただ者である筈もなかったのだが……カターチェニ所属の頃だって、俺はここまで緊張したことなんてなかった。
 つまりあそこの代表と彼とでは、格が違うってことなのだろう。
「それで。今日の会見を希望した理由は」
「あの二人のことです。そろそろ実習を迎える段階に入りましたが、二人の年齢を考慮するとどうしても踏み切れません。それでこの後の判断を仰ぎたいと」
「分かった。それでは私から頃合いを見てあの子達に依頼を回そう。あの二人については君にサポートに回って貰いたいから、とりあえずは君に連絡が行くことになる。いざと言う時には完全な任務の遂行を優先させて、君自身が行動を取ってくれても構わない……初めての仕事と言うのは、必要以上に腕が鈍るものだからね」
 言葉に含みがあるのはいつものことだが、今のベルデの調子には常以上に無視出来ない何かがあった。
 甦るのは一つのコードネーム。
 ナギ、と言う名を与える為の査定が、もしかしたらその仕事には関わっているのだろうか。
 否定されればそれまでだが、俺にだってそれを聞く権利位はある筈だと、思って声を出しかけた時だった。
 小さな音がして、電子ボードに何か映像が映ったのは。
 ……電子ボードの上で微笑を浮かべるその女性の顔に、俺は息を呑んで表情をこわばらせた。
「アナーシア・ピスタローヴァ。カターチェニでは特殊な訓練を受けていた様だね。亡くなった二十三の年まで候補生であり、コードネームを授かっていなかったと言うのは非常に異例なことだ。きっと君の組織での機密プロジェクトに関わりある人物なのだろう」
 アナーシア。
 ほっそりと優雅な弧を描く輪郭。真綿の様な笑み、色素の薄い瞳の色は反射次第で金にも茶にも見える。頭上でまとめた絹糸の様な髪は光に消えてしまいそうなプラチナブロンド。
 右耳のすぐ下には黒子がある。その映像ではちょうど隠れていて映らなかったが、俺は思い返すまでもなく、その特徴を言い当てることが出来た。
 忘れられる筈がなかった。
 彼女のことは何一つ失ったりしない。
 その仕草も、優しさも、残酷さも。
「……何故」
「君が組織を抜けた理由。カターチェニでは事実上NO.1の腕前を持ち、ジリエーザの異名で呼ばれる君が、自制心を失って脱退してしまった程の存在だよ。君の雇い主である私が、その彼女について調べていない訳がない」
「違う」
 そうじゃない。
 そうではなくて、何故今この時、こんなものを出す必要があるのかと。
 俺は、そう尋ねたかったのだ。
「現在シュテムには不必要なまでに多くの組織が存在する。せめぎあう競争社会の中、どの組織も他より秀でる為に各自研究を怠ってはいない。このペルソナもまた然りだが、」
 呟きながら、ベルデは更に映像を切り替え、そうすればボードには新たなアナーシアの姿が映し出された。
 ただし今度は彼女一人のものではなく、幾人かの仲間と並ぶショット。「カターチェニでは特に超常能力の研究が進められていたそうだね。プロジェクトに参加していた候補生達は工作員としての教育を終えながらも、その本来の役割の為に最後までコードネームを与えられることがなかった」
「……機密データだ。どうしてそこまで」
「君が彼女を処分したのは、彼女が上司と不快な関係を結んでいた為だったそうだね。上は君の冷静さと腕とを信頼して命令を出したのだろうが、結局君は耐え切れずに逃げ出した。それでも依頼を全うした後のことだから、やはり感心な話と言うべきかな」
「…………」
「だがしかし、処分命令の理由は本当にそんなことだったのだろうか。そうだとすれば驚きだよ。そんな理由で処罰を受けていては、このペルソナではエージェントがいなくなってしまうだろうから」
 違うと言いたいのを、俺は必死で抑えた。
 アナーシアは違う。
 そんな女じゃない。
「……貴方が欲しいのはカターチェニの情報なのか」
「調べる手段は幾らでもあるのだよ。その為に危険分子を引き込む必要はない。君だって自分が口にした言葉の可能性がいかに薄いかを、十分に理解しているのだろう」
 電子ボードの上のアナーシアは、まるで生きている様にころころと表情を変えている……そう、アナーシアは昔から表情の豊かな女性だった。
 幼い頃脱走に失敗して軟禁された俺のもとに食事を運びながら、彼女の浮かべていた表情を思い出す。
 誰もが諦めと絶望の中で表情を失っていたのにと、どきりとしたのはその為だった。
「君は死にたいと思ったのだね。誰よりも大切にしていた女性をその手にかけて、失った後の虚無感に驚いた筈だ。自分がどれだけ彼女を必要としていたのか、ようやく気付いて全てを捨てたいとまで思った。そうだろう? だから私は君を助けたかったのだよ」
 暗闇に目が慣れると、投影器の光を背にして立つ彼の表情さえもはっきり判別出来る様になる。
 彼は相変わらず口もとだけに笑みを浮かべて、そこにいた。
「死を望む人間見ると意地悪をしてやりたくなってね。それではどうしてでも生かしてやろうと思ってしまう癖が私にはあるのだ。そうだな、トキ。どうしても死にたいのなら、無価値で無意味な死よりも、我々の未来の為に死ねば良い。何も望まない君には与えるものもないが、それでも死ぬまでの数年は楽しく過ごせることを約束しよう」
「……楽しく?」
「そう。ペルソナを見ていると良い、これから世界はとても面白くなる。まるで世界が疫病を受けて腐り、シュテムが不可欠になってしまった様に。あれは始まりでしかないのだから」
 その不気味な言葉に、さしもの俺も眉をひそめずにはおれなかった。
 疫病を受けて腐った世界。
 当然疫病とはSOTEウイルスのことで、それに関する情報なら俺も握っている。
 データを入手したのはカターチェニ時代の話だが、同僚の中にはそれを知らない連中だって大勢いた。言わば機密事項に関わるデータなのだ。
 だからベルデも俺がその話を知らないと思って話しているのかも知れない。



 ……突然世界を席巻したウイルス。その悪夢はたった一人のカナダの女性から始まったと、歴史は伝える。
 1999年に始まった恐怖は、確たる治療法の発見を待たずに全世界を呑み込んだ。
 殊に人々の絶望に拍車をかけたのは、このウイルスの性質だった。
 空気感染であること、新種のウイルスであったこと。
 何よりその感染力は異常なまでのスピードで、人々の抵抗力を根こそぎ奪い取っていった。
 キラーウイルスとして恐れられたこの疫病は、人間の鼻や口から潜入して喉の粘膜に付着した後、爆発的に増殖。血液を通して体内の各器官に入り、感染数日後には脳にまで達し、神経障害を起こして感染体を死に至らしめるものだった。
 ウイルス表面の糖タンパクの変異が激しい等の理由からワクチンの予防は非常に困難とされ、やがては製薬会社その他の施設の一切がこのウイルスに対する抗生物質の研究を放棄するに至る……だから旧ドイツのミハイル・ノイマンが偶然発見したワクチンはまさに、人類にとって一筋の希望の光だったのだ。
 ここまでは現在使用される教材にも記されている事情、である。
 問題はその先だ。
 SOTEウイルスが何故突如、この地球上に現れたのか。
「一つだけお聞きしたい。貴方の言う面白いこと、とは、あの二人にも関係することなんでしょうか」
「……どうだろうね。そう言えば君は、あの二人に名前を与えたそうだが。二人がとても喜んでいたよ」
「喜んでいた?」
 話をあからさまにすり変えられたものの、びっくりしてしまったのはそれまで長い時間を共にしていた二人が、名前について喜ぶ素振りを今まで俺に一切見せていなかったからだ。
 与えられた名前にすぐに馴染んだのも、名前がないと不便だからと言う単純な理由からだと思っていた。情けないことに。
「前の教官は名前を?」
「どうだろう。それはあの二人に直接聞いてみると良い。ああ、早く聞いておいた方が良いな。記憶は失われるものだから」
「そこまで物忘れの激しい子供達じゃないでしょう」
 言葉をそのまま捕らえて呆れた様に言うと、ベルデはまた、意味合いの取れない微妙な笑みを浮かべて呟いた。
「そうなら、良いのだがね」




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