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「ジリエーザ」

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 それからしばらくは、特に何も起こらなかった。
 むしろ不自然なまでに平穏なペルソナは、毒水を含ませた何かを流し込んでる様にぴりぴりとして落ち着かず、誰もが無意識下での緊張に身を細らせている様だった。
 あの日の訪れ以来、俺はレキと顔を合わせていなかった。
 すっかり出て来なくなったルティカもそうで、データを探っても何も入手出来ない毎日の中、俺がルティカを尋ねようと思ったのは、手なぐさみ程度にいじっていたデータの中に偶然彼女の家の所在地が混じっていたからだった。
 意外と言うべきか当然と言うべきか、彼女の自宅はペルソナから程近い場所にあった。
 依頼もないのに外まで出るには許可が必要だし、何より休みを取らなきゃアイン達の訓練の合間に出かけるのは難しい。
 それでも申請した翌日には休みが取れたので、俺はそのあっけないまでの簡単さに拍子抜けしながらも、事前に調べた詳しい住所を基にペルソナ
の外に出た。
 俺がペルソナに来てから初めての外出。
 身体に毒なので内部にある紫外線室などの施設も利用していたが、それでも実に一年もの間、俺は外に出ていなかったのだ。
 ゲートを抜けるとペルソナ専用の巨大な駐車場がある。
 奥の車は全てペルソナ管理のもので、許可さえあれば誰が使用しても文句は出ない筈だった。
 色々と面倒が少ないので、愛車を持っている連中でも時折ここの公用車を使うらしいと聞いている。俺も勿論休暇申請の際に使用許可を取っていたので、早速使用可能になったIDを片手にその辺りの車を物色しにかかった。
 そのまま奥に向かいかけて、俺は足を止めた。
 丁度通路の向こうを見覚えのある顔が行き過ぎ様としている。
(あれはクレス……)
 以前K地区で迷子になった子供の名を、俺は思い出した。
 クレス・ダフィルトと名乗っていた少年と、それを囲む様に二人の品の良い中年夫婦が並んで歩いて行く。
 周りに数人ついているのはVIP専用のボディガードに違いない。身のこなしですぐにそうと分かる。
 となるとあれが富豪のダフィルト一家か。
 一人ごちて、俺はそのままその一団(と呼ぶに相応しい人数である)を見過ごそうとした。
 ……それに失敗したのは他でもない、クレスの方で俺に気付いた為である。
 あっ、と幼い声が駐車場に響き渡り、咄嗟に動きを止めた俺に向かってぱたぱたと軽い足音が反響してきた。
 留める声を完全に無視して、嬉しそうにこちらに走って来るのは言うまでもなくクレスである。
 どう見ても間違えようのない愛らしい顔。
 本当に、どこか芸術的なまでに整った造作をしていると、近づくその姿に俺はしみじみ感じ入ってしまった。
 ダフィルト家の人間であればシュテムの社交会デビューは絶対に約束されているだろうから、これは数年後大変な騒ぎになるだろう……と呑気に考えている間に、クレスは俺のもとまで駆けつけていた。
「ああ、良かった。行ってしまったらどうしようかとおもいました。ぼくのこと、覚えていますか?」
 第一声は臆面もない弾んだ声。
 俺は柄にもなく小さく笑うと、クレスにもはっきり分かる様に頷いてやった。
「忘れる筈がない。ペルソナ内部で迷子の案内をしたのは、あれが最初で最後だ」
「あの時は、ありがとうございました。父と母もとても感謝していました。今日はそとにいらっしゃるんですね」
 乱れた息を何とか整えようと懸命になりながらも、クレスは満面の笑みを絶やさずに語り掛けてくる。
「お前も早く帰るんだな。あれだけガードがついてるなら安心だろうが、気を付けろよ……ほら、早く行ってやれ。ガードの連中がはらはらしてるんじゃないか?」
「あの、一つだけ。いぜんに助けていただいたので、これはぼくからのおれいです」
 にこり。とほころぶその顔に、突然小さくなる声。
 子供らしい大げさな調子に、俺はゆっくりとその場にしゃがみ込むと、クレスに耳を近づけてやった。
「何だ?」
「もしルティカ・ノイマンのところに行くのなら、きをつけて。できれば今日はやめたほうが良いとおもいます」
 一瞬言葉の意味が理解出来なかった。
 あどけない口調で語られたその言葉はしかし、よくよく考えずとも酷く意味ありげなもので。
「……クレス?」
「ベルデ代表はしんちょうな方ですから、じゃまな芽はそうそうにつんでしまいます。かれはあそび心も持ってらっしゃるのだと母が言ってましたが、こんかいはそれも期待できないとおもいますし」
「待て。どうしてそんなことを」
 今にもきびすを返しそうなその姿に俺は慌てて声を上げた。
 するとほとんど分からない程度に傾けられる首。
「だって、あなたはトキ……でしょう?」
 言って、それではしつれいします、との言葉だけを残して去る後ろ姿に、俺は今度こそ血の気の引く思いがした。
 俺はクレスと会った時、名乗っていなかった。職業柄人に名を知られるのが得策ではないと分かっていたからだ。
 だがクレスは俺の名を……コードネームを知っていた。
 単に道案内をしてくれた俺の名を知りたくて、代表や両親にそれとなく特徴を話して訪ねたのだろうか。
 それにしても、今の台詞は一体何なんだ?
 ひらひらと、両親のもとに到着したクレスが手を振っている。
 それをぼんやり視界に映しながら、俺は手近にあった車のロックを解除した。
 成程、ダフィルト家は末恐ろしい迄に有望な子息を得ているらしい。
 とりあえず今の俺に理解出来るのは、その程度の事だけだった。
 ……全く、情け無いことに。







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