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「ジリエーザ」

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 この口調と態度からして、彼女はどうやらアインの方らしい。
 そもそもフィアーに関して俺が耳にしているのは、いつも消え入りそうな声だけなのだが。
「久しぶりね、アイン。相変わらず元気そうだこと」
「へーえ、今度はトキについてるんだ。ころころ相手替える前に、もっと自分のトシ考えれば良いのにねぇ」
「貴方も少しは自分の年を考えてモノを言うのね。半人前の癖に態度だけは立派だこと。大体今は検査の時間でしょう。まさか、抜け出してきたの?」
「あんたを呼びに来たんだよ、散々探し回らせといてさ! 息子の面会に来てる割にはあっちに全然顔出さないけど、ベルデに注意される前に母親らしい行動取れば?」
 母親。
 その言葉に、俺はルティカをまじまじと見つめた。
 子供がいることに驚いた訳じゃない、恐らく二十代半ばであろう彼女に子供が居ても何の不思議もなかった。
 問題は、彼女がここに“息子の面会に来ている”と言う事実の方だ。
「ナシェルはまだ試験を受けてる最中だって聞いたの。今からじゃ面会なんて出来ないわ」
「今日は早く終わったんだよ! 私達の検査の方もね。何かベルデにお客が来てるって聞いたんだけど、そのせいじゃない? 分かったらさっさと行きなよ」
「トキ」
 甘いトワレの香りが俺の鼻をくすぐり、それと同様甘さを含ませた吐息が俺の耳をくすぐった。
 眼前のアインの視線に、こうした態度は教育上悪いんじゃないかとまるで父親の様な気分になっていると、
「七人目の犠牲者にならない様に気を付けて。ベル・マーズの土は冷たいわよ」
 囁かれた言葉に俺は眉を潜めたが、ルティカはそれに構わず、物騒な挨拶だけを残してさっさとコンピュータルームを出て行ってしまった。
「……趣味悪いねートキ。あんな女が良い訳?」
 何だってこう双子にまつわる噂にはロクなものがないんだろうかと、思わずルティカの後ろ姿を追っていた俺だったが、すぐに小さなアインの呟きに気付いてぎょっとした。
 アインは時々鋭いのか鈍いのか良く分からない台詞を吐くが、今がまさにそれだった。
 俺の態度がお気に召さなかったのか、アインは益々不機嫌そうな顔になって俺を睨んだが、こうした表情だけは大人顔負けだと感心する程、アインは表情豊かである。
「だ・か・らっ、あの女だよ。ルティカ・ノイマンのこと! 自分の立場利用して、本人には大した価値もない癖にペルソナうろちょろしてるんだから……あいつ、絶対に自分が一番可愛いって人種だね!」
 立場を利用。
 アインの言葉に、俺はああ、とすぐに納得した。
 彼女は確認するより前に、自分の名前と立場とを俺が既に知っているものだと信じ込んでいた。
 そしてそれが間違いであると知るなり怒り出した。
 ただの自信過剰だと思いにくいのは、このペルソナがそれだけで闊歩出来る様な簡単な場所じゃないからだ。
 つまり彼女には本当にそれだけの価値があり、彼女自身もそれを知っているからこそのあの態度だったのだろう。
 だが、その価値とは何だろう。態度や物腰からして彼女がエージェントだとは思いにくく、だとすれば考えられるのは研究者や化学者の類でしかない。
 そこまで考えて、俺の脳裏に唐突に閃く名が一つあった。
 シュテムに知らぬ者のない旧ドイツの病理学者の名。
 世界をSOTEウイルスから救った英雄の名もまた、彼女と同じノイマン姓。ミハイル・ノイマンだった。
「まさか。彼女はあのミハイル・ノイマンの血縁者なのか?」
 ぽつりと呟いた俺に、アインがひどく驚いた様子で俺を見上げてきた。
「知らなかったの? そんなこと、ちょっと調べたら分かることじゃん」
 ……ルティカに続き、アインにまで情報収集の怠惰を指摘されてしまった。
「ルティカ・ノイマン。ミハイル・ノイマンが四十近くになってようやく出来た一人娘だよ。ノイマンには溺愛する娘が一人居たってこと位知ってるでしょ、アイツがそうなの」
「驚いたな。ノイマン一族についてはVIP扱いでネット上にデータが存在せず、一切が特殊な方法で管理されていると聞いたが……ペルソナに籍を置いていたのか」
「違う違う」
 どこか得意げな表情になって、アインは首を振った。
「ほんとに何も知らないんだね、トキ。ルティカはここに籍を置いてる訳じゃない、あるのは息子の籍だけ。ミハイル・ノイマンなんかここじゃ顔も見たことないし」
「……息子だけが?」
「トキはぁ、あたし達の新しい教官でしょ。だったらトレーニングルームに良く途中にやたら子供のいる部屋があるの知らない? ペルソナには託児所があるんだよ」
 託児所。
 ぽかんとした俺に、アインは見る間に顔を歪ませた。
 どうしたのかと思っていると、やがてその顔が弾ける様に崩れ、アインは無邪気な声を上げて笑い出した。
「嘘だよー、託児所は冗談。でも子供が沢山いるのはほんとだから」
「……子供、ね」
 確かに俺は自室とトレーニングルームを毎日行き来しているが、ペルソナの本部の敷地は異様に広く、施設と施設の間や部屋間を通うにしても場所によっては随分と距離があり、時間がかかった。
 だからその途中に数え切れない程の部屋が存在するのは、考えるまでもなく当然のことだったのだ。
 だが、子供ばかりの部屋と言うのは残念ながらこれまでに見た記憶がない。と言うより双子のトレーニングルームのあるK29区域は重要施設が多く、その為に関係者以外が各施設の全容を知ることなどまずあり得ないと言うのが現状だった。
 ペルソナは数あるエージェント供給組織の中でも特殊な位置に存在し、その内部では旧ドイツからの依頼による様々な研究が頻繁に行われ、今では国家(シュテム)以上のレベルを誇る研究所を幾つも抱えているのである。
 そんな訳だから、俺なんかがおいそれとは覗き見ることの出来ない施設がそこに揃っているのも充分に頷ける話だ。
(しかし、子供を使った研究だと? ペルソナは何に手を出しているんだ)
 つい昔の癖で考え込みかけて、俺は頭を振った。
 一体俺は何を考えているのだろう。こんなことはもうやめにしようと、つい先日決めたばかりなのに。
「……あたしがあの女のこと嫌いなのね」
 不意にアインが呟いて、俺はコンピュータルームを出てからずっと並んで歩いていた彼女の小走りになりかけている歩調に合わせながら、ゆっくりとその顔を眺めた。
「あの女?」
「ルティカ・ノイマンだよ。あいつ、いつも誰かに頼って生きてるの。自分に何の力もないから他人に縋るしかないんだって、マーツも言ってたよ」
 マーツ、と言う名前には覚えがあった。
 確か俺の二代前の、アインとフィアーの教官だった男のコードネーム。
「あたしはそんな生き方いや。何もかも他人に左右される生き方なんて、全然楽しくないじゃない。違う?」
 子供めいてどこか拗ねた様な声に、俺は知らず浮かぶ笑みを噛み殺しながら、確かに子供以外の何者でもない幼いその姿を見下ろした。
「……それでも、人を好きになると皆そうなるものなんだよ。避けて通れないことだし、誰にも関わらずに生きていける人間なんて存在しない。他人に向ける愛情や好意の念は挫折を呼ぶこともあるが、結局のところ、そうしたものは人に必要なものなんだ」
「そんなのいらないよ。好きになるとあんなになるんなら、あたしは一生誰のことも好きになんかならない」
 ふう、と大人びた溜め息をつくアインに、俺は静かに眼を伏せる。
 そうかも知れない。そう、思った。
 何故ならかく言う俺だって、最初のうちはそう信じていたのだから。
 人と接したり離れたりすることは疲労を招くだけで、結局は何にもならないことなのだと。
 ……だけど、アイン。
(そんなにうまくもいかないのさ)
 この幼い子供を……幾ら大人顔負けの工作員としての能力を持っていても、まだたったの四つか五つにしかならない子供の顔を。
 じっと見つめながら、俺は脳裏に甦る名前をどうしても拒めずにいた。
 アナーシア。
 君の言った通り、俺は人を愛して沢山のものを手に入れた。だけど。
 そのたった一つのささやかなものを失っただけで、今まで手にしていた全てを失うなんてことを、君は最後まで教えてくれなかった。
 ……全て気付くのは一切が終わった後。何もかも、無くなってしまった後だ。
 けれど失った後に気付いてどうなるのだろう。
 何もかも失い、がらんどうになってしまった後で。
 俺は一体、どうすれば良かったのだろう。





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