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「失楽園」

第四部...9
 渦巻く白と黒の螺旋が、見上げた白い天井に浮かび上がる気がする。
 目暈とは違うその視界の異常にシンジはかすかに目を細めて、やがてはすっかり瞼を閉じてしまった。
 今はあまり何も考えたくない。
(記憶があるんだ。こんな鮮明な記憶が。だとしたら、これは気のせいなんかじゃない)
 嫌な感触。手の中で命の消える音。
 ベッドに横たわったまま手を上げ、視界を遮る高さで握ったり開いたりする。
 手は逆光を受けて赤い輪郭を作り、そうしているとまるで自分の手の中の血管が浮かんでいる気がした。
 眩しい、赤ん坊の体内を巡る赤。
(…………どうして。こんなのおかしいよ。こんな)
 記憶の混乱が見られたのは今回が初めてじゃない。思い出せば、シンジの感覚に触れる『おかしな出来事』は最初から少しずつ起こっていた。
 まずヒイロがネルフに侵入した時。
 シンジが、普段は入りもしないネルフの部屋に強引に入って行った理由は何か。
 あの時感じた感覚を未だシンジは表現出来ないでいる。
 それからサンクキングダムでは食堂でおかしな人影を見た気がしたのだった。人影と言うより気配、だろうか……それに。
 絶えずつきまとう懐かしさ。
 それはあの少年の姿に起因していた。暖かくて優しくて、それからどう仕様もない罪悪感と嫌悪感を招く存在。

“シンジ君”

 目を閉じれば声が聞こえる。柔らかい声。
 次いで暗闇ばかりが残る脳裏から急速に浮かび上がる姿も。
 グレイの髪に赤い瞳。微笑みは慈愛に満ちて、けれど残酷な。
「……カ……君」
「軟弱だな。たかが一度の戦闘でそれだけ消耗するとは、戦闘員にあるまじき精神力だ」
「えっ!?」
 重い身体を、けれどシンジは力を振り絞る様にして起こした。
 ベッドがきしんでたゆむ中、扉口に立つ人影を見て茫然とする。
「……君、いつから。ドアの閉開音なんてしなかったのに」
「俺の名は張 五飛。先刻の戦闘はこのネルフで見物させて貰った。お前があの巨大兵器のパイロットだな」
 いつの間にか、そこにはシンジと同い歳程の少年が立っていた。
 もう大概のことでは驚かないと思っても、やはり驚くべきことは次から次へと生まれるものらしい。
(せめてノック位してくれても)
 などと呑気に考えてから、シンジははっと我に返った。
「って、君ここの人じゃないだろ!? そうだよ、顔も見たことがないし……何でここに居るの? まさか……新しいエヴァのパイロットじゃ」
「馬鹿ばかしい。そんな弱腰だから負けるのだ」
 まるで叩き付ける様な五飛の言葉に、シンジは思わずびくっとした。
「え……と、御免……じゃなくてっ! 何なんだよ君。部外者だって言うんならここは一般人は立ち入り禁止だから」
「俺は部外者ではない。お前達の言う“エヴァ”と言う巨大兵器について興味がある」
 きらりと切れ長の瞳に見据えられて、シンジは何となく威圧されてしまう。
「データを見た限りではあのエヴァと言う兵器はパイロットの技量ではなく、その精神に強く影響されて動くモノらしいな。だから興味があってここまで来たが、何故お前の様な軟弱な人間がそんなものに乗っているのか理解出来ない」
「う、うるさいな! 僕だって好きで乗ってる訳じゃない、黙って聞いてれば好き勝手なこと言ってるけど!」
「弱い奴ほど言い訳が多い。だが兵器に乗っている事実に変わりはない、と言うことくらい理解出来るだろう。戦闘員である以上は言い訳をするな」
「……バカシンジ、居るんでしょ。入るわよ」
 まさに最悪のタイミングでドアが開いたのはその時だった。
「……え?」
「あ」
「…………」
 現れたばかりのアスカの茫然とした顔と、その前に立つ五飛と名乗った少年の姿。
 次の瞬間なにが起こるのか嫌というほど分かるこの状況に、シンジはつかの間、くらりと眩暈を覚えた。
 その途端、
「な、何なのよアンタっ! ここの関係者じゃないわね、どっから入ったの!?」
 アスカの聞きなれた金切り声が響き渡った。
 もちろん五飛は当初はネルフに侵入したものの、今はリツコの監視下でここでの逗留を認められている立場なのである。
 けれど使徒との戦闘の後すぐに部屋に運ばれて休息を取っていたシンジ達はその事実を知らず、更に更に、五飛は思いっきり誤解を生みやすい態度を取るタイプだったのだ。
「答えられないのならすぐに人を……むがっ」
「うるさい、騒ぐな。これだから女は困る」
 素早く無駄のない動きでアスカの口を塞いだ五飛は、よせば良いのにそんな言葉を漏らしてしまった。
 ぷつ、とアスカが切れたのは、彼女の性格を考えれば無理のない話。
「むっ、んーーっ!」
「お前達の様な人間が戦闘員だとはな。全くの素人だ、戦う権利もない」
「ちょっと待ってよ、何で僕がそんなこと言われなきゃならないんだ! 大体仕方ないだろ、戦闘員ったって僕はイキナリあれに乗れって……そうだよ、父さんが無理やり乗れって言うから、だから仕方なく」
「それが軟弱な精神だと言っている。理由など関係ない、今、自分が自分の中の正義を貫ける程に強いのか、それが問題なのだ」
「ん…………がっ!」
 叩き付ける様にそう言った五飛が、はっとした様にアスカの口から手を放したのは次の瞬間のこと。
 どうやらアスカが五飛の手のひらに噛みついたらしい。
 茫然とその様子を見守るシンジの前で、飛びすさる様にして五飛のもとから離れたアスカは、肩で息をつきながらぎりぎりと歯ぎしりをした。
「っ、イキナリ何すんのよ変態っ! それに何なの、何えらっそーに言っちゃって!」
「女。学習能力がないのか。黙れと言った筈だ」
「お。んな、ですってぇ?」
 アスカの顔がしずかに引きつっていく。やばい、と思わず後退してしまったのは、何故か五飛ではなくベッドに上がり込んでいたシンジである。
「人のことオンナオンナって言わないでよ! あたしには惣流・アスカ・ラングレーって言うちゃんとした名前があるのっ。それにアンタのさっきからの“女”を馬鹿にした様な発言。それって何? 女は人類の母、人間はみーんなあんたの言う女から生まれてくるんだから、それを小馬鹿にする権利あんたにないわよっ。……それともあんたは木の股からでも生まれた訳?」
「俺が言うのは戦場に於ける人間のことだ。大体あんな機能を用いた兵器だから、お前達のような人間がパイロットに選ばれることになる。無駄な巨大兵器だな」
「……無駄って言われると、確かにすぐに精神汚染とかの影響が出るし、給電システムも面倒だけど……でもそれには理由があるし……」
「あんったねえ、自分のエヴァこきおろしてどーすんのよっ。大体シンジ、この失礼部外者野郎見て腹立たないの? んなことまで言われてっ!」
 シンジが思わずぼそぼそと五飛の言葉に答えると、我慢ならなくなったアスカが目を三角にして声を上げた。
 うっ、とシンジが顔を伏せる。
「でも、戦闘に向かないって意見は本当のことだと思うし……」
「あんたはともかく、あたしは違うのっ!」
「……そこまで言うことないんじゃないか、僕だってこれでも努力してるんだからっ」
「アンタが努力? はん、笑わせないでよ。大体さっきの戦闘なに? あっさり使徒にやられちゃってさ、あれがイキナリ消えてくれたから良かったものの、そうでなきゃ今頃大変なことになってたんだから」
「アスカだってやられてたじゃないか」
「…………五十歩百歩だな。あの時お前達は二人共やられていたぞ」
 いつの間にかシンジとアスカとの言い合いに化けていた会話に、何となく引きながら五飛が呟くと、二人はほとんど同時に互いを指差し、

「「だって自分のこと棚に上げちゃってるからっ!」」

 声はハモって五飛の耳を直撃した。
「う、うるさい……」
 頭を押さえて言うと、何かに気付いた様子で背後を振り返る。
 しばしの後まだまだエスカレートする二人の言い争いに、まるで終止符を打つタイミングで声が振ってきたのはまさにその時だった。
「今の意見はちょっと甘いんじゃない? 大体使徒が完全に消えたなんてまだ言えないんだから」
「だ、そうだぞ。いい加減黙ったらどうだ」
 五飛の相づちを伴ったその聞き慣れた声に振り返ると、アスカが先刻まで立っていたドアの前に、まるで寄り掛かる様にして立つ姿がある。
 勿論それは、
「ミサト(さん)!?」
 またもやハモる声に、ミサトはにんまり笑って五飛に視線を移した。
「困ったわね。約束では、部屋でじっとしてくれている筈だったんじゃなかった?」
「ほとんど部屋を出ていないも同じだ、この程度の散策ならな」
「……貴方のお友達が到着する時刻になってるの。悪いんだけどこの二人、お借りしても宜しいかしら」
「好きにしろ。俺はそれにどうこう言う権限を持たない」
「あれ……ミサト(さん)の知り合いだったの、そいつ(その人)」
 会話に、掴み合ったままの二人は言葉をもらして、ぽかん、と五飛を眺めたのだった。






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