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「感謝祭(カーニバル)」

【2】
 太陽が天頂まで昇るとシニョンを包んでいた霧はすっきりと晴れ、初夏の匂いを漂わせる水の町の姿が、ようやく人々の前に顕になる。
 この季節のシニョンの町は夜型で、午前中は深い霧がたちこめる為、昼夜の逆転した生活が営まれ始める様になるのだった。昼から活動を始める人々は、その代わり午前0時を過ぎる頃でも当然の様に職場に残り、働き続けるのである。
 慣れないこの風習に旅人のおおよそは驚くが、感謝祭の間は町中が休日になるので、この時期に訪れた観光客が夜に入って当然の様に働く住人の姿を見ることはない。彼らが目にするのは、眠らない人々が続ける夜通しの大騒ぎだけだった。
「遅かったな、イシリオン」
 低い声に、前屈みで手を洗っていた青年はびくりと身を起こした。
その視界には水場をさらさらと流れて行く血の混じった水が映っている。
「下見はどうだった。何か良い情報でも手に入れたか」
「兄上」
 名を呼ばれて、ようやく青年は振り返った。
 流れる様な短い黒髪に緑の瞳、整った目鼻立ちが女性の様に柔和で優しい青年だが、背後に立つ長身の影に向き合うその顔は震えを帯びて青ざめている。
 普通であれば成人前の若々しさに溢れている年頃の筈が、怯えきったその顔からはただ異様なまでの緊迫感しか伝わってこなかった。
 手を洗い終えると無理に息を整え、イシリオンは強引に水場へと頭を突っ込む。
 しばらくの沈黙の後、背後から近付いた長身の男が囁く様に呟いた。
「……誰を殺めてきた」
 背筋が震える程に冷たい声だった。
 長い黒髪を一つにまとめ、イシリオンに似たその顔に深い影を落とした男は、そうやって立っているだけで相手に威圧感を与えることが出来るのだ。
 ゼフィトス、と言う名の彼は、イシリオンの長兄でもある。
「血の匂いが強い。後を尾けられてはいないだろうな」
「その心配はないと思います。充分な注意を払ったつもりです」
「マイヨの関係者か、それとも刺客の一人か」
 殺した相手のことを尋ねているのだ。
 イシリオンは唇を噛むと、濡れた髪をかき上げながら答えた。
「マックス・ロートンと言う名の男です。シニョンの有権者の息子と言う触れ込みですが、どこまで信用出来るか……水路に掛かる橋を調べているところを襲われたので、やむを得ず仕留めました」
「懸命な判断だな。依頼人の提示した額は、我々の手で直接始末してこその報奨金だ。分かっているだろうが」
「はい。出来る限り、邪魔になりそうな連中は始末します」
 震える声で告げた弟に、それで良い、と答えてゼフィトスは別室に戻って行った。
 一人残されたイシリオンは、髪と顔から滴る生温い水を服の袖で拭いながら、側にあった椅子へと力無く腰を下ろす。
(殺しなんてしたくない)
 そう、泣いて叫んだのはいつの頃だったか。
 暗殺術を叩き込まれ、あらゆる感情を殺す訓練を受けても、イシリオンは自分の手が血に汚れることを嫌った。そうした人々の中で育ち、自らも十四の頃には人を殺める様になっていたのに、それでもイシリオンはいつまでたっても人の命を奪うことに慣れないのだ。
 連綿と受け継がれた技術は確かにイシリオンに染み着いている。弱いのは心だと、兄は言った。早くに仕事のミスで命を失った父と母に代わってイシリオンを育ててくれた彼は、一度たりとも仕事に迷いを見せたことはない。
 慣れることだ。今更逃げ道はなく、前に進むしかないのだから。
 そうやって心を駄目にしてゆくイシリオンに、兄は初めて条件を出してくれた。
 ……マイヨ・ゴレイールの命を奪えさえすれば、イシリオンは自由になれる。
(絶対に失敗出来ない。これが最後の機会なんだ)
 両肩を抱き、震える身体を何とか静めたイシリオンは、繊細な美貌を両手で叩きながら唇を噛んだ。
 そう、この仕事さえ乗り切れば、もう人を殺めずに済むのだ。

*****

 同時刻。
 シニョンの宿屋の一室で椅子に座って靴紐を結んでいた少年は、背後に近付いた気配にふっと顔を上げた。
 まだ十になるかならずかのその顔には、歳に似合わぬ、鋭い青の双眸が輝いている。
「なに」
「……驚かせるつもりじゃないんだから、そんな顔で睨まないでよ、ウェズリ」
 苦笑混じりに呟きながら、奥の部屋からひっそりと現れたのは一人の女性だった。
 背丈や雰囲気からして少年より年長であるのは確かだが、白い面におおわれたその顔からは、およそ年齢の類などが一切分からない。
 面は顔全体を隙間なく隠しており、ただ二つ開いた穴から、背まである長い髪と同じ鳶色の瞳が覗いていた。
「もう出掛けるの? 食事、まだでしょう」
「食べたよ。あんたの分はそこに置いてある」
 短く言って、ウェズリは立ち上がった。
「あんたが寝てる間に水路で死体が一つ上がった。マックス・ロートンって名で、この町の有力者の息子だ。死因は首の後ろにある小さな傷、刺客は針を使ったらしい」
 それは奇妙な光景だった。
 老成した態度で語る十足らずのウェズリと、ひどく目を引く白い面をつけた年齢不詳の女性。
 一見して姉弟の様にも見えるのに、二人の間に漂う空気は殺伐ささえ感じる程によそよそしいのである。
 ウェズリの底冷えする様な視線が僅かに女性を見つめて、すぐに逸れる。すると視線を受けた当の女性は少しもこたえた様子なく、面から覗く瞳を細めながら薄く笑うのだった。
「ねえウェズリ、貴方は少しも私を信用していないみたいだけれど、それなら何故、私なんかを助けたの?」
 透き通る様な美しい声。けれど彼女が口を開くたびに、揶揄する調子が伝わってくる。
「今の貴方にとって、私はただのお荷物でしかないのでしょう」
 ウェズリは立ち上がりかけて、もう一度女性を返り見た。
 彼がシニョン入りしたのは今から三日程前のことで、その時はまだ一人だった。この、面を着けた奇妙な女性とは、シニョンに入ってから知り合ったのである。
 ウェズリがこの都に来た目的はただ一つ、ミネルバの右宰相マイヨの暗殺にあった。肉親を失って以来、その為だけに生きてきたウェズリにとって、今回の感謝祭はようやく巡ってきた信じられない程大きなチャンスなのだ。
 両親を殺したマイヨ、村一つがあの男の為に犠牲になった。
 吐き気がする程に鮮明な炎と血に濡れた記憶……けれど通常より強靭だった彼の心は過去の惨劇に壊れることなく凍りつき、子供とは思えない程の落ち着きと判断力とを備えた今のウェズリを作り上げた。
 マイヨを殺す、ただその為だけに。
 そう、彼女の言う通りなのだ。名前すら告げないこの女性は、今のウェズリにとってお荷物な存在以外のなにものでもない。
 それなのに突き放せないのは、彼女の奇妙な存在感と、胸うちで輝く炎の様な復讐の念とに魅せられた為かも知れなかった。
 ……女性の面の下には、醜く火傷に引きつれた顔がある。それは感情の起伏に乏しく、大抵のことには驚かないウェズリでさえ息を呑む程のケロイドだった。
 闇の中、月明かりに浮かび上がったおぞましいその顔を、ウェズリは今でも生々しく思い返すことが出来る。
 警備兵に見咎められ、捕らえられようとしていた彼女が暴れた拍子に外れた仮面。月光に反射した彼女の顔のケロイドは、視力を失わせずに顔面を焼く為の拷問器具ナーグ、つまりは両目を隠す道具を使った人為的なものだった。
 同じ様な拷問を受けてショック死した人間を少なからず見てきた彼は、年若い女性が、その恐怖と痛みを乗り越えて生きている事実に驚いたのだ。
 助けるつもりなどなかった筈だった。それなのに気付けばウェズリは咄嗟に警備兵を水路に突き落とし、彼が這い上がってくる前に女性の手を引いて遁走していた。
 少なくとも祭りが始まるまでの間は子供一人では動きが取り辛く、彼女を連れにすれば便宜上話を通しやすい、と思いついたのはその後のことだ。
「あんたが居てくれるだけで、俺にとっては都合が良い」
 しばし考えて答えたウェズリに、女性は面を押さえながら、薄く笑った様だった。
「それは有り難う。でも覚えておいてね、あの男を殺すのは私だってこと。私ほどあの男を憎んでいる者はいないし、それを邪魔する人間は、例えそれが貴方でも許さないのよ」
「マイヨを憎んでる人間なんか掃いて捨てる程居るさ。あんただけじゃない」
「貴方もその一人って訳」
 短く答えた彼女に、ウェズリは軽く肩をすくめた。
「その通り。思ったよりは、良く分かってるじゃないか」

 






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