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「落ちてゆく夢の終わり」

夜伝の人々L
 どこまでも続く白い廊下と、その横手に見えるいくつかの階段。
 しばらく真っ直ぐ走り続けたタカシは、まだ背後から聞こえる声と足音とを無視して、次の角を曲がってすぐの場所にある階段を駆け上がった。
 その間にも、頭の中ではさっき聞いたばかりの女性の言葉がぐるぐるしている。
 一体これは、どういうことなのだろう。
 この寂しい白い建物のことを、あの女性は「眠り病の研究病院」だと言った。
 眠り病の研究病院。
 それはつまり、眠り病の人間だけがいる病院、と言う意味だろう。だが。
(こんなふうにひとところに眠り病患者を集めて、それでどうするっていうんだ?)
 折り返しの階段を何段も何段も登って、やがてタカシは、一番上の階にたどり着いた。
 そのまま手摺から真下を眺めたが、追いかけてくる人影はない。ただ、何とか追い付いてきた子供が、タカシの後ろで荒い息を繰り返しているだけ。
それ以外には、物音ひとつ聞こえない。
 ……病院と言う割には、看護する人間や見舞い客の姿が全くないのが不気味だった。
 だが、もしかしたら、とタカシは気付く。もしかしたら、ここが本当に「眠り病の研究」をしている病院なら……。
 そっと一番手前にある部屋を覗くと、中には、小さな寝息と共に眠り続ける沢山の人達の姿があった。
 いつかどこかで見たことのある光景。
 それが示す答えはただひとつ。
 ……ああ、とタカシは喉の奥で呻いた。やはりそうだったのか、と。

 眠り病患者の病院、それは眠り病に掛かった人達の『隔離場所』のことだったのだ。

 そもそも、眠り病は感染しない。
 治療法は謎のままだったけれど、長らくの研究の成果でそれだけははっきりしていた。個人に潜む何かの因子がきっかけで発病する為、突然の発病を避けられない代わりに感染もしないのだ。
 だから森の都では、眠り病患者に対しての隔離手段など一切取られておらず、病院には収容しないで自宅療養させると言うのが通常の処置だった。
 それなのに……湖の国の医師達は、そんなことも知らずに患者を隔離しているのだろうか?
 タカシは次第に不安にがんじがらめになりつつある自分に気付いた。
だってこんなのはもの凄くおかしい。
 もしこの国に、タカシが噂で聞いた通りの『治療法』が存在するなら、こんな風に大勢の眠り患者を集めて隔離する必要などない筈だ。
(いいや、隔離って言うより)
 と、タカシはゆるゆると首を振る。
 隔離と言うより、ここにはもっと冷たい印象がある。
 その時ふと、手を繋いでいた筈の子供の姿が消えていることに、タカシは気付いた。
 いつからいなくなっていたのだろう? 
 心細くなって辺りを探すと、子供はタカシのいた隣の病室の、一番奥に立っていた。
「馬鹿、うろうろすんなよ。心配するだろ」
 足音を立てないよう注意しながら近寄ったのに、子供はこちらを見ようともしない。
 ただ、何か物言いたげな、寂しそうな顔で病室の中を見つめるばかりだ。
 何を見ているのかと思えば、その視線の先には、他の病室同様ベッドで眠る男の人の姿があった。
 ベッド脇のプレートには『ロクボシ・ヤスキ』とあり、窓際の椅子には恐らく見舞い客のものであろうと思われる黒い鞄と紙袋とが、一つずつ置いてある。
(俺の父さんくらいの年の人かな。優しい顔をしてる……)
 髭が顎を覆うその姿に、タカシは知らず、父親の面影を重ねていた。
 胸の動きを見なければ分からないほどかすかな呼吸を繰り返し、それでようやく生きていることが分かるほど、静かな横顔。
 じっとその姿を見ていると、いつの間にか子供が彼に近付き、ケットの外に出ていた大きな手をぎゅっと握りしめた。
「…………」
 おい、と注意しようとしたが、男の人に向けられた子供の瞳の色に、思わず言葉を失う。
 この、暖かく優しい眼差しを、タカシは知っていた。
 ナナの時だ。
 子供がナナの手に触れた直後に、長い間目覚めることのなかった妹の瞳が開いた……。
 目の前の子供が全く違う生き物に変わってしまったような不安、そして相反する安堵感……そうしたものの中でやはりタカシがまんじりとも出来ずにいると、やがて、眠っていた筈の男の人の瞼が、ぴくりと動いた。
(目を、覚ます……?)
 あの時と同じように。
 そうして、息を呑んで見守るタカシの目の前で、やはりそれは起こった。
恐らく、眠り病患者として入院していたであろうその人が、ゆっくりと目を開いたのだ。
 静かに、時間をかけて目覚めたその瞼の奥にあったのは、いつかどこかで見たような、淡く綺麗な紫色の瞳だった。
「……私は、また、夢を見ていたのか」
 その唇から漏れたのは、ひどく乾いて、しゃがれた声。
 それから男の人は小さく首を傾けると、しっかりした目つきでタカシと子供とを交互に眺める。
「君たちは……」
「あ、あの、ご免なさいっ。勝手に、俺っ」
「構わないよ……カナのお友達だね。あの子が見舞いに来てくれたのか」
 ほとんど独白のようなその言葉に、タカシは知らずはっとした。
 カナ。
 今、確かにこの人はそう言った。
「……今度こそ本当だと思ったのに、また夢だったんだね……」
 けれどタカシが尋ねるより早く、男の人はひどく弱々しい溜息をもらした。
「不思議だ……私はそれを見たことがないのに、夢の中ではとても鮮明なのだ……白い、白い、沢山の雲。この国の灰色の雲ではない。真っ白な雲が、色々な形で流れて……」
「霧練り?」
 まるでこぼれ落ちるように、その言葉はタカシの口をついていた。
 霧練り。白い雲を寝る職人。
 すると男の人はひどく嬉しそうに、ふわりと幼い微笑みを浮かべて、
「そう。ムネリだ。何と美しい……伝説の通りだった。けれどあれは現実ではない。現実には、誰一人、迫り来る終焉の足音に耳を傾けようとはしなかったのだから。ヨツテが灰色に染めたのは、空や雲だけではない。皆の心にも、夜を運んでしまった……」
「おじさん」
 再び目を閉じた男の人の瞳から、一筋の涙が流れた。
 思わずタカシは言葉を失う。
 こんなにも孤独そうな大人の顔を、初めて見たのだ。
 子供が呟いたのはその時だった
「タカシ。ねって。ムネリして」
「え?」
「ほんもののムネリを、おねがい」
 こちらを振り返った子供の瞳の中に、滲むような不安がある。
 そうしてタカシはようやく知ったのだった。子供が何故自分をここに連れて来たのか。タカシを待っているのが、一体誰であったのかを。
 無理だよ、とか、出来る筈がない、とか言う前に、タカシは病室の窓に近寄っていた。
 外を見ると空は遠く、相変わらずどんよりと濁っている。見ているだけでも、霧練りなんて出来る筈がないと思える雲の色だ。
 けれどタカシの目の前には、絶望するほどに、霧練りを望んでいる男の人がいる。何故だかは知らないけれど、どうしても霧練りを必要としている男の人が。
 ……窓を開けると、タカシは思い切り両手を伸ばした。
ここからでは雲を引き寄せるには遠すぎるし、タカシ自身に力がなさ過ぎる。
 けれど……けれど。
 これは今までの霧練りとは違う、絶対に成し遂げなくてはならない、最後のムネリにしか出来ない霧練りなのだ。
(だけ……ど)
 ぎゅっと両手に力を込める。重くねっとりとした色が、タカシの脳裏を染めるような気がした。
 いつもならこうするだけで、白い、綺麗な空気が胸の中に広がっていく。それが霧練りなのだ。
 けれど手を伸ばして意識を集中させただけで、こんな気持ちの悪い空気が流れ込んでくるなんて……とてもじゃないけど、雲を集められそうにない。
 決意と現実との間に立ちふさがる壁の大きさに、タカシはぎゅっと唇を噛んだ。
 やっぱり、こんなの無理だ。
 そう思った瞬間、ふと自分の肩に優しいぬくもりが落ちる。
 振り返ると、背伸びした子供が、励ますようにタカシの肩に手を寄せて微笑んでいた。







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