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「天涯比隣」

<其の四>
 「そもそも、ことの始まりは、羊だったのです」

 重々しく話を切り出し、邑長は溜息をついた。

 再び場所を戻して、ここは邑の集会場の天幕の中。ほとんど強引に連行……じゃなくて室内に案内された太公望と普賢真人は、卓上に用意されたお茶を前に、渋々と言った様子で話を聞いていた。
 にこにこ顔で居る普賢とはうって変わって、太公望の方はえらく憔悴しきった顔つきである。

「この邑は、今から十数年前にこの地に移動してきました。本来なら数年を周期に肥えた土地、住み良い土地を求めて移動する筈が、珍しくこの地に長く留まることになったのは、ひとえにあの、桃園の為……」

「ふむ。確かに良い香りがしておったの」

「野生の桃の木の群生した場所を我々で整備し、園にしたのがあの場所です。最初にあの桃を食べた私共は、手を掛ければより良い桃が育てられるに違いないと、それはもう熱心に精魂込めてあの桃園を手入れしておったのですな」

「う、うむ。だから反省しておるよ。わしらは黄巾でそのど真ん中に落ちた挙げ句、桃園の一部を崩壊させてしもうたからのう」

「いえ、いえ。失礼しました、お話はそのことではなく、化け物のことでして」

「化け物? さっき言っていた?」

 と、今度は普賢。

「実は、我々がその桃園を手放し、再び邑を移動させねばならぬやも、と言う危機に直面している理由がそれなのです。ある日、私共の邑の里延と言う若者の飼っていた羊が、一匹残らず死んでしまうと言う事件が起きまして」

 冒頭の「ことの始まり云々」の台詞は、どうやらここに繋がるらしい。

「毒性のある植物を口にした為らしいのですが、飼い主の里延が言うには、羊にはいつもの場所の草を食べさせただけらしいのです。羊を失った里延は仕方なく別の職を得て働き始めましたが、この時死んだのは里延の羊ばかりではありませんでした。同じ様に放牧していた、別の男の羊まで死んでしまいまして」

 その男の名を、斗朴と言う。
 彼は原因不明の羊の死を一方的に里延のせいだと決めつけた。
 そもそも里延は両親を早くに亡くし、妹と二人で後から邑に合流した流れ者である。斗朴の言葉を契機に、自然邑人達は里延にいわれのない中傷をぶつける様になった。

「ところが、です。ある日残った羊を連れて森に出ていた斗朴が、化け物に襲われて重症を負ってしまった。その後養生していたものの、結局斗朴は数日の後に息を引き取り、その日から、斗朴を襲った化け物が邑にまで出現する様になったのです」

「斗朴さんが化け物に襲われたと言うのは、確かなんですか?」

 普賢が尋ねると、邑長はこくりと頷き、

「森で化け物から逃げる斗朴の姿を見た者があるのです。その者の見た化け物の姿と、度々邑に現れる化け物の姿とが、一致した次第でして」

「で、そやつは一体どの様な化け物なのかのう」

「緑の……あれは何と言えば良いのか。見たこともない不気味な花や草のついた、巨大な、うねうね動く……」

 げげぇ、と太公望が腰を浮かせた。普賢も首を傾けてこの邑長の言葉に聞き入っている。

「それは、確かに化け物ですね」

「化け物は連日の様に邑に現れ、田畑を荒らしたり、天幕を壊したり、人を襲ったりしています。我々も懸命に対抗しましたが、何せ相手は切っても叩いても意味のない不気味な化け物、これは人の世の物ではないと、我々もこの地を離れる覚悟を決めていたところだったのです」

「ねえ、望ちゃん。確かにこれは、人が解決出来る問題じゃないかもね」

「……おぬし、まーたいらんことを言おうとしとらんか?」

 人の良さそうな返答を口にした普賢に、太公望は妙に小狡そうな顔つきになると、右手をひらひらさせて唇をタコにする。

「言っておくが、邑長の見立ては間違っておるぞ。普賢はともかく、わしなどまだまだ修行中の身。化け物退治などとはとんでもない」

 さりげに自分だけ逃れようとする太公望の台詞に、きょとんとなる邑長。

「は。しかし、お二人は仙道の方でしょう?」

「仙道なら何でも出来ると言うのが間違っとるのだ。大体見たこともない化け物と対決するなんぞ、面倒臭いしのう」

「望ちゃん。皆の桃園をあんなにしておいて、そんな風に言うのは冷たいんじゃない?」

「あそこを破壊したのはおぬしの操縦しておった黄巾ではないかっ! 悪いと言うならおぬしが悪いわい」

「こう言う時は一蓮托生だよ。それに、このままこの邑を放っておく訳にはいかないし」

「おぬしが言うなーっ!」

 二人ともこの時点では、化け物、と言う話をまともに受けとめてはいない。そもそも化け物なんて、それほどしょっちゅう出現するものではないのだ。何かの見間違いということもありうる。
 しかし話を聞いていても普通の人間界には存在し得ない『もの』であることは確かなようなので、恐らく仙人界が関与したものと考えて間違いはないだろう。
 とまあ、普賢の言葉には暗にそうした意味が込められていたのだが。太公望はつーんと顔を逸らすと、天幕の上を指差して言った。

「おぬしの言いたいことは分かっとる。しかしそれなら、元始天尊さまに報告して処置を任せておけば良い話ではないか」

「……事情は良く分かりませんが、仙道さま。つまり貴方さまがたは、私共の邑をお見捨てになると言うのですね」

 しん。とした天幕の中で、やがて暗く呟いたのは邑長だった。太公望が振り返ると、邑長はやたらと沈んだ顔つきで肩をぷるぷると震わせている。

「致し方ありません。こうなれば、私が責任を取りましょう」

 は? と二人が目を丸くした時、邑長がさっと懐から青銅の刃を取り出した。ぎゃーっっと叫びそうになって、その刃を今にも己が首に突き立てようとする邑長に飛びつく太公望。

「ままま、待てっっ早まるでないっ! おぬしが首を切るのと化け物退治の話と、どこがどう繋がっておると言うのだっっ!」

「そうそう。そんなに慌てて自害しなくとも、もしかしたら良い解決策が見つかるかも知れないし」

「って注意しとらんと、おぬしも止めんかいっ!」

 目の前の刃の奪い合いをのほほんと眺めている普賢真人に鋭い一括をかますと、太公望は改めて、刃を持つ互いの手を力の拮抗でふるふると震わせながら叫んだ。

「とにかく落ちつくのだっ、んなことで死んでどーするっ」

「いいえっ。既に邑内では仲間の喧嘩がたえず、あまつさえ、陰湿な嫌がらせをする者まで出ている始末。この上仙道の方々にこの件を断られる様であれば、私が死をもって皆を納得させ、この地を離れるより他ありませんっ」

「よう考えてみいっっ、おぬし話の辻褄が合っとらんではないかっ!!」

 ぎゃーすかぎゃーすかとわめいている内に、天幕の外で控えていた男衆が慌ただしく中に入ってきた。
 誰もが刃を手にした邑長の姿に仰天したが、とにかく全員で大騒ぎしながら何とか邑長を押さえ込むことに成功すると、太公望は何とか席に戻って、ぜえはあと荒い息を繰り返した。

「ねえ望ちゃん」

「……ん?」

「ここはやっぱり、協力してあげようよ。望ちゃんだってこう言うの、あんまり好きじゃないんでしょう?」

 こう言うの、とは、仙人界の力が人間界に関与してしまうことを差す。案外鋭いところをつかれて、太公望はぐっと息を呑んだ。

「ううむ……」

 渋々顔で、それでも納得しかねていたのだが。



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