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「弥彦編」

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 最初にその異変に気付いたのは、何を隠そう弥彦と同じ牛鍋屋『赤べこ』で働く少女、三条燕だった。



 忙しい昼の時刻を過ぎた赤べこ店内は、一時の騒然さが嘘の様に客足もまばらになり、比較的空席もちらほら見える様になっている。矢継ぎ早の注文を受けて駆け回っていた店員達も、さすがに疲れを隠せなくなる頃合だ。
 そんな中、燕は珍しく疲れにぐったりとなることもなく物思いに沈んでいた。勿論仕事の手を止めていた訳でもないのだが。
(今日の弥彦君、何だか様子が変だわ)
 現在の時刻は午後一時半。いつもなら、そろそろ店長から裏で遅い昼食をとる様にと声を掛けられる時間帯だった。
 そうなればようやく弥彦に声を掛ける機会が出来るし、事情を尋ねることだって出来る……筈なのだけれど、奥で昼に出た鍋や皿の洗い物に追われる弥彦の様子を見ていると、どうやらそれも難しい様に思われてきた。
 いつもなら客の注文を取ったり掃除をしたりする弥彦は、今日は店長直々の注意もあって、奥の洗い物当番に回されていたのだ。
(どうしよう。私も食事を我慢して、弥彦君と一緒に食べようかな)
 ……赤べこで働く店員達は、当然ながら忙しい昼の時刻を避けて昼食を取る。時には早めの昼食になることもあったが、今日は早くから店が混み始めたので、おおよその店員が昼を取っていなかった。
 だから燕も顔を合わせた当初からそれに気付きながらも、声を掛けるタイミングを失っていたのだ。
(やっぱり、弥彦君の手があくまで、待っていよう。怪我の手当だってしてあげたいし)
 そう。燕が食後の珈琲を希望した客にカップを届け、そのまま奥で皿洗いをしている弥彦をぼんやり眺めている理由は単純明快。
 それは赤べこの店長が、弥彦を裏の洗い物当番に回した理由とも共通していたのだが……。
 怪我。
 なのである。
 思いきり腕まくりして皿や鍋をごしごし洗う弥彦の腕の青痣と、更に顔のあちこちに見られる幾つも傷跡。これこそが燕の注意を引き、更に店長に、人目に触れる店頭から奥の仕事に弥彦を回させた理由なのであった。
 ……弥彦は現在、浅草にある剣術指南処、神谷道場の門下生として練習三昧の日々を送る少年である。
 師匠兼道場主は剣術小町としても知られる神谷薫と言う少女で、実は燕も知り合う前から、店に来る客達の噂話などで名前だけは知っている程の、ちょっとした有名人だったりした。弥彦を通じて知り合い、凄く綺麗で格好良くて素敵で、いつかあんな風になりたいと憧れめいたものを抱いたりしていたのだが、それはまあ置いといて。
 道場の門下生、更に練習三昧な日々を送る訳だからして、当然ながら弥彦はいつもあちこちに打ち身や青痣を作ってくる。
 実は打ち所が悪くてふらふらしながらも根性で赤べこに来た日もあったから、彼が怪我をしているなんて今更珍しくない話なのだ。しかし。
(絶対におかしい気がする。だっていつもなら、あんまり酷い傷にはきちんと湿布や薬をつけてから、ここに来る筈だもの)
 そう。引っかかりを覚えた原因はそこにあった。
 燕にじっと見つめられているなどとは少しも気付かずに、ひたすらばしゃばしゃと洗い物を続ける弥彦。その額や頬についた傷からは未だにうっすらと血が滲んでいて、それはどう見ても治療を済ませた跡には見えなかったのだ。
 赤べこは一応客商売だから、店長に言われるまでもなく、弥彦自身その辺りはいろいろと気を使っていて、手伝いの日などには、特に目立つ傷を治療してからこの赤べこにやって来る位だった……その筈なのに。
「おい。何見てんだよ、燕。お前ぼーっとしてねぇで仕事しろって」
 しばらくじーっと見つめられてさすがに気付いたのだろう、不意に弥彦が洗い物の手を止めて顔を上げ、仏頂面のまま声を上げた。
 途端に隣からぶんと飛んでくる太い腕。
「いてっ!」
「馬鹿野郎、お前もさっさとここ済ませて、あっちで昼飯食って来い! 燕、今の内に妙と昼飯にしとけ。夕方になったらまた忙しくなっちまうからな」
「あ、はっ、はいっ」
 店長の声に頭を下げると、燕は店頭で働く妙を呼びに慌てて身を翻した。
 こうなると来の引っ込み思案な性格も災いして、弥彦君を待ちますとは言い出しにくくなってしまう。
(あ、明日もこんな風なら、今度こそきちんと聞いてみよう……)






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