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「弥彦編」

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 さて、この同時刻。
 薫が水澤道場の方に偵察(?)に出ているとはつゆ知らず(と言うか、実際の所は薄々気付いていたのだが)神谷道場でいつも通りに家事をこなしていた剣心は、その時ふらりと玄関に現れた人影に仰天、目を丸くした。
「弥彦。どうしたでござるか、その格好は」
 そろそろと、隠れる様にして戻ってきたところを見ると、恐らく誰にも会わずに済ませたかったのだろう。剣心の声にぎょっと飛び上がった弥彦は、そのまま恐る恐る振り返り、洗濯物の入った盥からふんどしを引っぱり出している剣心をジト目で眺めた。
 いや、しかし問題はその態度ではないのだ。
 そんなことよりも剣心が首を傾げたのはその姿格好……何と弥彦はまるで泥の海に飛び込んだ様なまだらの茶色・ドロドロ状態で、玄関に立っていたのである。
「……薫は?」
「今日は知人と会う約束があると言って、外に出ているでござるよ」
 所在を尋ねる辺り、やはり前々から自分のことをえらく心配していた薫のことを意識しているらしい。
 更に剣心が洗濯物片手に固まっていると、
「着替えねぇと、この格好じゃ赤べこに行けねぇからよ」
 珍しく歯切れの悪い物言いで小さく告げた。
 しかしさすがに自分でも「今のはかなり言い訳めいてるよなあ」と感じているらしく、そのまま剣心の目を避ける様に俯き、てきぱきと井戸の水を汲み上げ始める。風呂場に運んで泥を流すつもりらしい。
「風呂の方はきちんと綺麗にしとく。剣心、このこと、薫には黙っててくれよな」
「それは構わないが……一体どうしたでござる。雨が降ってる日にぬかるみに突っ込んだ様な状態でござるよ」
「んなこたぁ言われなくても分かってるよ! その……ちょっとドジ踏んじまって」
 ふむ。と内心眉を潜める剣心。どうあっても事情を隠したいらしい。
(これでは薫殿が心配するのも無理ないでござるな)
 苦笑して、弥彦を眺めた。
「弥彦。薫殿に余り心配を掛けてはいかんでござるよ」
「ばっ……べ、別に俺は心配なんか」
「おーおー、気付いてねぇ訳ないよな弥彦。お前充分心配掛けてんだろぉがよ。で、今日は泥まみれで全く災難だよなぁ」
 その時。
 急に背後から声を掛けられて、弥彦は更にぎょっとして思わず水の入った桶をひっくり返しそうになった。
 振り返って見ると「ようっ」と片手を上げつつ、左之助がぶらぶらと庭に入って来る。
「な、何だよ左之っ」
「今日は嬢ちゃんが留守みてぇだし、何となく事情も呑み込めたんでな。まあ、懲りずに様子見に来たってぇ訳だ」
「左之。やはりお主……」
「何なんだよ事情って!」
 どきどきしながらも無理に怒鳴る。そんな顔つきを隠せない弥彦に、左之助はふふんと鼻で笑うと、
「水澤道場の一人息子と、果たし合いをするらしいじゃねえか」
「果たし合い?」
「て……てっめえ左之、何でんなこと知ってんだよ!」
 言ってしまってから我に返ったらしい。思わず自分の口を押さえる弥彦に、左之助は更に言葉を続ける。
「果たし合いの原因までは知らねぇが、水澤の息子の子分みてぇなヤツらまで動いてるってのは穏やかじゃねぇよな。子分っつっても全員が道場の門下生、ここまで巻き込んで果たし合いするってことは、下手すると嬢ちゃんにまでとばっちりがくるぜ」
 ずばずば言われて、弥彦は悔しそうに左之助を睨んでいる。先程から生乾きの洗濯物を手にしたまま突っ立っている剣心は、この様子に一人「成程」と頷いてみたりする。
 確かに左之助の言葉は正しかった。水澤の息子と言うのが一体どんな人間かまでは知らないが、果たし合いの前に子分まで動かす位だから、余り「出来た人間」とも思えない。
 とすれば相手の一存で話は父親の道場主まで飛び火して、もしかしたら薫が頭を下げる様なことになるかも知れないのだ……左之助の言う「とばっちり」とは勿論このことである。
「薫には面倒掛けねぇ。俺が全部始末つける」
「始末ったっておめぇ……一体何だってそんなヤツと果たし合いなんざする羽目になっちまったんでぇ。何か腹に据えかねたことでもあったんだろうが」
「関係ねぇだろ!」
「始末をつけると言い切るなら、それを貫き通す覚悟はあるのでござろうが、」
 今度は剣心が、それまでのなだめ顔から一転真剣な表情になると、真っ直ぐに弥彦を見ながら短く呟いた。
「現に今、お主は薫殿に心配を掛けている。それを忘れてはいかんでござるよ」
「……分かってるよ」
 吐き捨てる様に言うと、弥彦はそのまま井戸水の入った桶を持ち、強引にそれを肩にかつぎ上げながら風呂場に駆け込んでしまった。
 後に残された剣心と左之助は、しばし無言のまま互いの顔を見合う。
「それで、左之。いつからこの件を調べていたでござるか」
「人聞きの悪いこと言うねぇ。たまたまあいつが妙なガキ共に絡まれてるの見ちまってよ、それで様子見てたら、まぁ何となくこうなっちまってただけで……で、どうする。嬢ちゃんに全部話すのか」
「弥彦が懸命に隠そうとするのは、どうも意地ばかりが理由ではない気がするのだが」
 曖昧に笑って、剣心は風呂場を見やった。
「案外その事情と言うのも、拙者達が予想している以外のものかも知れぬな」
「……まあ、そりゃ良いとして」
 低い声で左之助が呟く。
「おめぇ、その洗濯物さっさと干しちまえよ。何かさっきから気になって仕方ねぇんだけどよぉ……」




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