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「弥彦編」

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 悩んで悩んで、結局薫が取った行動は皆さんのご想像通り。
(剣心はああ言ったけど、何も首を突っ込まなくたって、事情を知ることは出来る筈よ)
 弥彦が赤べこに行く日を狙い、剣心には「知人に会うから」とだけ告げて。
 薫が向かったのは、言うまでもなく例の道場主・水澤某のいる蔵達流水澤道場であった。
 水澤道場は神谷道場より南下した隣町にあり、同じ出稽古先の前川道場や新発田流上越館に比べると、少しばかり通い遠い場所にあった。
 門下生の数はおよそ五十、子供が多く、道場主の水澤録助も「これからの子供達に心身を鍛えて欲しい」と言う願いからこれを喜んでいた。
 出稽古には一度しか行っていないながらも、稽古の合間に剣術について話す機会を得たのだ……随分と感じの良い人だった、と言うのがその時の薫の印象である。
 前川先生同様、心から剣術を大切にしている人だった。そうした人と話をするといつも父の面影が胸をよぎって、薫は胸が痛い様なくすぐったい様な気分になる……のだが、今は勿論そんなことを考えている場合ではない。
(水澤先生は多分何も知らないと思うけど、でも息子さんのことを直接伺えば、少しは事情が分かるかも知れないわ)
 ここまで、薫は勝手に……昨日の左之助の言葉の聞きかじりをもとに、弥彦は水澤先生の子息と喧嘩をしているのだと推察していた。それならあの怪我の理由の説明もつくし、突然左之助が水澤先生の名前を出した訳も分かる。
 しかし、そうなると弥彦は一体いつどこで水澤先生の息子と知り合ったのだろう?
 出稽古の時は薫とずっと一緒にいたけど、水澤先生の子息は一度も道場に姿を見せなかった。だとしたらいつ……。
(町中で偶然に? お互い、相手が誰だか知らずに喧嘩になったとか。でも肝心の喧嘩の理由が分からないなぁ)
 しかし、いつまでもくどくどと悩んでいても仕方ない。とりあえず先生に話を伺おうと意気込んだ薫は、密かにガッツポーズなんか取ったりしながら黙々と歩き続け、やがてしばらくの後にようやく蔵達流水澤道場にたどり着いた。
 水澤道場は、奥にある道場主の住まいの別棟を除いて計算しても、かなり広い。しかし前回お世話になった時にはその道場が狭く感じられる程の盛況さだったから、門下生達は随分と熱心に剣術に打ち込んでいるのだろう。
 道場いっぱいを使って練習を続ける大勢の門下生達の頑張りを思い出して薫はうっとりした。あんな風にいつか神谷道場も門下生達でいっぱいになったらいいなぁ、と思う。また、以前の様に……。
 玄関に立ち、そのまま白昼夢にひたってしまった薫は、しかしすぐに我に返るときょろきょろと辺りを眺めた。途端に、井戸端で汗を流している門下生の一人とばっちり目があってしまう。
「あの、水澤録助先生はこちらに?」
「はい。先生でしたら、中で年少組の門下生の指導に当たっておられます」
 成程、道場の中からは大きく足を踏みならす音、竹刀の音、気合いの声が響いている。薫がそちらを困惑したていで眺めていると、様子を察したのか、その門下生が「先生を呼んできましょうか」と親切に申し出てくれた。しかし……。
 薫はしばし迷った。稽古中に先生自らに出て来て貰うのは申し訳ないが、しかし稽古の途中に道場にお邪魔して話をするのも同じ位申し訳ない。
 やっぱり休憩時間を待ちます、と答えようとしたが、年若い門下生は早くも急ぎ足で道場に入って行った後だった。
(どうしよう。この時間帯なら、前に休憩を挟んでた頃合だと思って伺ったんだけど)
 少し早かったかも知れない。だけど午前中に来ておかないと、今日は弥彦が昼で仕事を終えてしまうのだ。
 そうこうしている内に、道場の入口から小太りの男性が姿を見せた。四十を過ぎたこの人物、どちらかと言うと柔術の似合いそうなこの男性こそが、この水澤道場の主・水澤録助である。
 身長は薫より僅かに低く、全体的にどっしりとした雰囲気を匂わせる。薫とてそれ程背丈がある訳でもないから、水澤禄助は確かに小柄と言って良い体格をしているのだが、真正面から見据えられるとこちらが動けなくなってしまいそうな貫禄と威厳とが、この禄助を全く違った様子に見せていた。
 小柄さは基本的に剣術家として短所となる場合が多いが、禄助の場合は他の小柄な者達同様、体型を活かした俊敏さ、技の切れで東京でも十の指に数えられる剣客として知られている。
 相好を崩すと優しい顔つきになるはずなのに、練習中に抜け出して来た為か、目前にあるその顔にはまだ門下生に向けた険しい表情が残っている。
 目が、合う。咄嗟に薫が頭を下げると、すぐに気付いて「ああ」と微笑んだ。
「神谷さん。何か御用ですか」
 問われて、先程の井戸端の門下生に自分の名前をすら告げていなかったことを思い出した。
 あちゃあーと内心呻きながらも、薫は折り目正しくもう一度頭を下げる。
「申し訳ありません、稽古中に」
「いやいや、構いませんよ。稽古を付けると言っても、今などは見回り程度のことしかしていませんでしたからね……それにしても、今日は一体?」
「あ、はい。実はお尋ねしたいことがあって」
 段々と「失敗したかも」と言う気分に押されて、薫の声は小さくなっていた。
 こんな風に先生を巻き込むのはおかしいし、そのつもりがなくとも真正面から「息子さんのことでお話を伺いたいんですけど」なんて尋ねれば、自然に先生だって事情を知りたがる筈ではないか。
 これでは首を突っ込まずに事情を探るどころではない。
(どっちかって言うと、前みたいに弥彦をつけた方が良かったのかも知れないわ。うっわーほんとにどうしよう……)





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