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「失楽園」

第四部...6
 使徒殱滅(?)の後。
 あの不思議な燐光が降り注いでからのサンクキングダム側からの通信では、当然ながら事態の説明を求める旨が伝えられた。
 次いでネルフの設立理由の詳細と、使徒と呼ばれる存在の詳細……そしてその存在が本当にサンクキングダムを含む世界に危害を加えることがないのか、ないと言うのであれば一体何をその証拠とするのかなどの質問が続けられる。
 これに対しネルフ本部戦術作戦部長・現司令代理である葛城ミサト三佐は、代表リリーナ・ピースクラフトのネルフ内部視察許可を出し、更にその随行人も認めていた。
 サンクキングダムからの迎えとして、エヴァンゲリオン操縦者・ファーストチルドレンである綾波レイが選出され、またリリーナ・ピースクラフトは随行人に四人の少年達と側近であるルクレツィア・ノインを希望。
 この選択が成されるまでに要した互いの時間はほぼ皆無と言って等しい……つまり双方で、この事態に選択権はないのだとの納得があったからなのだが。


 少し指を置けば、小さく音を漏らすピアノ。窓の向こうから響く雨音に今にもかき消されてしまいそうな程に。
 薄暗いサンクキングダム王位学園音楽室の中。先程まで柔らかな旋律を奏でていたその鍵盤に、カトルは優しく触れるだけに留め置いて、陰を作るそれを見下ろしていた。
 かぼそい鍵盤はひどく弱々しく、だからかすかに指が躊躇うのが分かる。
 人を殺すことの出来る手。人の全てを狂わせてしまうことの出来る指。
 重い命を断ち切ってきた指が、こんな小さな物に触れることも恐いなんて。
 そう思うと知らず自嘲の笑みが浮かんでしまう。
 ここから生まれるのは音。音が生み出すのは心だ。
 奪うことの出来る指が生み出す動きを作ろうとする、それが躊躇われるのは余りにも違う結末の為だろうか。
(重い……)
 こんなことをしていても何にもならない。
 過去を悔やむだけでは何も変わらない、現状は刻一刻と変化しており、だからこそカトルは未来を切り開く為にサンクキングダムにやって来たのだ。
 その筈、なのに。
「もう、弾かないのね」
 不意に声が掛かって、カトルは扉口を返り見た。
 そこにひっそりと立つのは、いつの間にかサンクキングダムの制服をリリーナに返してしまっていたらしい、以前使用していた制服姿となった綾波レイ。
「君は、」
 言いかけて気付く。
「そうか。そろそろネルフに行く時間……ご免、もうプリンセスの支度も整った頃かな」
「“罪は戸口で待ちぶせており、お前を渇望している。お前は罪を支配しなければならない”」
 突然の言葉。レイの声は軽く空気に震えて、雨音に包まれながらカトルの耳に優しく届く。
 え、と呟いて顔を上げたカトルは、そこに自分をじっと見つめている赤い瞳を認めて目を細めた。
「ユダヤ……創世記の4章だね。でもそれが何か、」
「人類の祖は禁断の実を食べて楽園を追放され、人を殺して神の顔を見ることが出来なくなった。人は生き続ける限り罪を重ね続ける、永遠に……楽園を失ったまま」
 綾波レイがここまで雄弁になった姿を、カトルは初めて見ると思った。
 レイはいつも無口で、ヒイロとは違った寡黙さを漂わせていると言うのが数少ない彼女の印象だったけれど、だからこそ余計にその口が語る言葉は重く聞こえてくる。
「貴方は終わりを恐れるの。それとも、終わらせることを恐れるの」
「……どうして僕に、そんなことを?」
 雨音が遠い。
 まだ昼過ぎだと言うのに陽光を失った外界は薄暗く、閉め切った音楽室の中は更に暗い。
 レイの顔を彩る陰が濃くて、カトルにはその表情が伺えなかった。
「君の目にも、僕はカインの様に見えるのかな。罪を恐れて顔を伏せている様に」
「貴方の罪は友達を失ってしまいそうになったこと? でも、違ったんでしょう」
「そうだね。トロワは生きていた。でも……僕が自分の心の弱さの為に彼の命を奪おうとしたことは変わらない事実だよ。それは忘れて良いことじゃない。
 旧約聖書では死を穢れだと言うけど、人と死は密接な関係にある。土から生まれて土に還るから生と死は共に存在する……“失楽園”が人類に課せられた罰だと言うのなら、人は始めから罪を負って生きていると言うこと、死を伴う生を得たことが既に罪なのだから。
 ……ユダヤ教の法はまるで人の生を否定しているみたいだ」
「人として生まれることが罪なのかも知れない」
「……うん。君達の世界もまた、闘いの渦中にある。世界が変わっても人類の歴史から闘いが消えてしまうことはないんだね」
「戦いは贖罪? でも、ヒトの可能性はひとつではないわ」
 レイの淡々とした声に、カトルは小さく目を見開く。
 かすかに雨音が強まって、窓の向こうを流れていく。
「貴方達は選択しようとしている。戦いのない世界、それが今現在の終着点。だとすれば過去を振り返って選択を無駄にしては、いけない」
「……有難う」
 変わらない口調はやはり静かで、けれどそこにはかすかないたわりを感じたから。
 カトルは深く吐息する柔らかさで礼の言葉を口にしていた。
 本当は、気付いている。
 どうして、どうして振り返らずにいられるのだろうかと言う心の声に。
 息が止まりそうな程の暗闇で、歩けばひたひたと忍び寄る足音。
 人類は既に罪を負い、もしそうであるのなら罪人が溢れる地上でそれ以外の存在はいないことになる。
 でも……誰が罪を犯しても。
 振り返れば、見えるのは自分の罪だけ。
 他人の罪は遠く、結果でしかない。どれだけ理解しようとしてもそれは最後まで乗り越えることの出来ない壁だ。受け止めて今と言う時を動かさなければならない現実。
 だけど自分の罪はいつまでも生々しくて、何故、と言う自問は飽くことなく繰り返される。せめてもう一度あの頃に戻れるのなら、と。
 でも今カトルに必要なのは確かに、その全てを心の奥で包み、消化することだった。
 罪の意識には個人差がある。それでも乗り越える力こそが、誰もが持たなければならない強さなのだと言う事実には変わりない。
 何よりその強さを求めたのはカトル自身である。
 兵士として、もしこれからも戦い……そして守ることを選択するのなら。
(強くなりたい……!)
 本当に、心からそう思う。
 ヒイロ達にあって自分に足りないもの。その正体を知っている。
 だとすれば乗り越えることは不可能なことじゃない。形のないものに向かっていく訳ではないのだから。
 自分の卑劣さに嫌悪し、自分の罪に自嘲し、過去を悔いるのは確かに必要なことかも知れないけれど、それは今ではない、その為に大切なものを再び失ってはいけないと知っている。

“カトル。お前が自分を責めるのなら俺も自分を責め続けるだろう。俺への行為がお前の罪だと言うのなら、お前をそんな風に苦しめた俺の行動こそが俺の罪だからだ”

 庭に逃げ出して自分を責めるカトルに、あの時トロワはそう言った。
 胸に染み通る様な深い緑の瞳が強く、差し込む言葉と共にカトルを癒す様に。

“今は。必要のなくなった戦士である俺達が再び未来を見つけ踏み出す為に、ほんの少しの間で良い、俺達は互いの罪を心の奥にしまっておこう。俺もお前と共に罪を負い、共に苦しむ。お前が贖罪を求めるのなら俺も同じだ。それは……出来ないか?”

(約束するよ、トロワ。僕は今度こそ逃げない。それがどれだけ狡いことでも、自分を責める逃げ道には走らない……そう、誓う)
 ぽろんと鍵盤の上を流れたカトルの白い指に、簡単な旋律がこぼれる。
 やがてレイを振り返ったカトルの顔には、痛みを越えた微笑が浮かんでいた。
 勿論。
 あの時感じた違和感と、互いが抱いていた不思議な認識についてのことを忘れた訳ではなかったのだけれど。






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