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「神殿」

ミケェヌ・シュビタH
 静謐の廟に転がり込んできた時、リディアは完全に怯え切っていた。
 これまで堪えていた感情の一切が吹き出し、すっかり気丈さを失っているように見えた。
 そうして、わたしは彼女の中に終わりを見た気がしたのだった。
 ……彼女のすべてが……いや、わたしの中にあった彼女のすべてが、壊れていく……。
「どうして……どうして貴方達が、こんな所で」
 あえぐようにリディアは言った。
 その瞳の中には深い拒絶の色があった。
 それでわたしは、認めないわけにはいかなくなったのである。
 彼女にスンガルとキュルソーの思いを継いで貰うことは、もう出来ないのだと。
「……あなたはわたしではなく、わたしもまた、あなたではない。だから手を取り合うことも出来ないのでしょう、きっと。あなたはとても有能なので、本当に残念ですが」
 わたしの言葉に、リディアの怯えは一層酷くなった。
 分かるように説明しろ、と叫び、続けて同じ言葉を繰り返した。
 貴方達は一体誰なの、どうしてこんな場所にいるの。
 わたしは行動に移らねばならなかった。彼女が外に出て全てを明るみにすれば厄介なことになる。
 わたし達のただごとでない様子に、次の瞬間、リディアは弾かれたように立ち上がった。
 静謐の廟から飛び出すと、肖像画と聖地画に彩られた廊下を駆け抜けて行く。
 その足下を黒い染みが驚くべき速さで追いかけて行き、わたしとエリッタもまた、その後に続いた。
 恐怖にせき立てられて走るリディアを見失わずに追うのは難しかったが、エリッタの案内のお陰で神殿内部に詳しくなっていたことが幸いした。
 わたしは、身を隠す為に円柱の部屋に逃げ込んだリディアを追って、逆に先回りすることを思いつく。
 わざと入り組んだ付近に入り込んで柱の陰に隠れると、その直後、恐怖に顔をひきつらせたリディアが現れた。
 柱の陰から現れたわたしの姿を認めるなり、彼女は小さく悲鳴を上げて、立ち止まった。
 その途端に、リディアの足下に影のようについていた黒い染みもまた、ずるりと動いて動きを止める。
 ……ぷつぷつと言う音と共に、やがて神の口がリディアの足を捉え始めた。
「いや、いやだ、来ないで化け物!」
 それが何に向けられた言葉だったのかは分からない。
 絶叫して、今来たばかりの廊下を駆け戻り掛けたリディアは、けれど今度はエリッタに前を阻まれてたたらを踏んだ。
 行き場を失ってじりじりと後退する姿。
 わたしは素早く近寄ると、彼女の腕を掴んでその場に突き倒した。
「リディア、あんまり騒がないで下さいね」
 がんぜない幼子を叱るように言って、わたしは仰向けに倒れた彼女の上に乗り掛かった。
 両膝で下半身を押さえ、彼女の渾身の力のこもった腕も、両の手で掴んでしまう。
 逃げ場を失った彼女は全身で逃れようともがいたが、その間にも床にぴったりついた彼女の背を覆うように、黒い染みが広がり。
 そして……、
 ずるり、と音がした。
 リディアの唇から、恐怖の為ばかりでない悲鳴が洩れる。
 小さく血飛沫が飛び、彼女の背が薄く床に沈んだ。
「やめ……た、助け、て、退いてっ。あ、貴方まで、一緒に喰われる……っ!」
「おやおや、お前の心配までしているよ」
 柱にもたれ掛かり、わたし達の様子を静観していたエリッタが楽しそうに呟いた。
 それでもわたしは黙ったまま、リディアの顔に死相が広がるのを見つめ続ける。
 わたし達の真下にいる神は、もはや獰猛な食欲を隠そうともせずに、リディアを喰らい始めていた。
 わたしの身体にまで伝わる咀嚼の振動の中、彼女の口から大きな血塊が飛ぶと、続いてぷち、と言う不気味な音が床下から響いてくる。
 彼女のあらがう力は束の間強くなり、すぐに弱まって、瞳から力が失われた。
 彼女が内容していたありとあらゆる感情が吸い込まれるように消え、やがて不自然に身体の各部が床に沈んで行く。
 ……彼女の美しい顔が血に汚れ、床に沈み込んでいく時だけ、わたしは一抹の寂しさと悲しさを覚えた気がした。
 それが本当に「感情」と呼ばれるものであったのか、確認するすべはなかったが。
 僅かな時間の後、リディアの全身が血飛沫と内臓の一部とを残して床に消えると、彼女の血を浴びて全身を汚したわたしの身体は、自然に床の黒い染みの上へと落ちていた。
 肌を舐めるような感触が、床についた脚や腿に広がったが、わたしが冷ややかに染みを見下ろしている間にそれも消え、神はそのまま床底へと沈んで行く。
 ……しばらく身動きせずにいたわたしに、やがて小さく拍手する音が聞こえてきた。
 エリッタだ。
 こちらを見ながら、呆れたようななげやりな態度で両手を叩いている。
「お見事。と言いたいところだが、良かったのかい。お前はやけにリディア・ノートンに肩入れしていたようだったが」
「別に、良いんです」
 短く答えて立ち上がると、わたしはエリッタを振り返った。
「戻りましょう。今更悲鳴を聞きつけて走って来るような間抜けが、神殿にいるとは思えませんが。念のためです」
「……なるほどね、ずいぶんと立派な巫女振りだ。確かにお前になら、予言の少女も勤まるだろうよ。静寂の神殿に心を壊された歴代の神官王達にはない、お前自身の強さでね」
 わたしは笑った。心の底から。
「わたしは壊れていますよ。もう、ずっと以前から。壊れているから、これ以上壊れることもないんです。それだけのことなんですよ」










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