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「神殿」

リディア・ノートンE
 神殿で行われる授業は、私が予想していた以上に水準の高いものだった。
 教鞭を取るのは神殿の巫女頭、巫女副頭やその補佐の女性達だったが、多岐に渡る講義内容やそのレベルの高さに、悲壮な覚悟を持って神殿に入った巫女候補達は、予想外の苦労を課せられることとなったのだ。
 入殿する者のおおよそはある程度の教育を受けているので、講義は専ら基礎学力以外の、神殿に関する知識や宮廷学などになる。
 驚いたことに、その内容は多岐に渡り、自国の領土内の歴史等について学ぶミネルバの教育とは、一切が違っているのだった。
 神殿の試練を乗り越えて外に出た者が、そのまま国の高官になるのである。思えば神殿がミネルバ領内でも最高の学び舎であるのは、むしろ当然のことなのかも知れない。
 それでも、これだけの教育を突然受けなければならないというのは、一般家庭の女子にすれば、少々厳しいものがあるのではないだろうか。
 しかし、この講義内容の水準の高さに苦しめられる巫女候補達の中で言うと、私は比較的苦労せずに授業を受け入れることが出来た。
 元々勉強は嫌いではないし、むしろこれだけの学術を授かることが出来るのだから、感謝したいほどである。
 何より他の候補生全員がこの講義を苦々しく思っていたのかと言うと、実はそうでもないのだ。
 何しろ広間に長机を並べて行われる講義の間だけは、神の贄になる心配がないのだから……出来る限りの力で知識を詰め込まねばならない状況下、まさに集中力を問われる講義の間に、感情を激しく乱す者など誰一人としている筈もない。
 入殿の際に泣きわめいていた少女でさえ大人しく授業に集中し、環境の変化に懸命について行く候補生達の時間は、ごく平穏無事に過ぎていった。
 初日の講義内容は神殿のしきたりについて、に終始したが、それが終わると候補生達の胸からは、この神殿に関する恐怖が次第に薄れていくようにも見えた。
 平穏な時間のもたらす気怠さと、与えられる役割とは、私達にとって神殿を、それこそ町にある女学校のようなものに見せ始めていたのだ。
 それがどれだけ恐ろしいことなのかを、勿論私達の誰もが気付いていなかった。


 講義が終わると、少女達はめいめい大人しく自室に戻る。
 中には初日の私のように神殿を散歩する者もあったが、慣れてみると、美しい内装を見せる神殿は確かに見学に適した場所だった。
 時間はたっぷりあるし、一年の奉仕が終われば二度と入殿を許されないとあっては、これまで怯えるばかりだった候補生達が、途端に散歩に勤しむようになるのも頷ける。
 神殿のあちこちを行き交う候補生達。中には、完全に安心しきった様子の候補生の姿もある。
 こうして、神殿での奉仕の日々は、穏やかに過ぎていった。


 ある日のこと。
 いつものように講義を終えて席を立った私は、一人の少女に声を掛けられた。
「初めまして。私、モルフィナ・マノと言うの。貴方はリディアね」
「……どこかでお会いしたかしら」
 肩までの赤毛を柔らかく巻いた、私と同年代の少女だった。
 そう言えば講義の前に集まってお喋りに興じる候補生達の中に、確かに彼女を見た気がする。
 とすると、彼女が私に声を掛けてきた目的は明らかだろう。
「貴方は多分、私を知らなくて当然かも知れないわ。だって貴方、いつも何も言わずに部屋に戻ってしまうでしょう? でも私は貴方のことを知っているの。今年の候補生の中に、とても綺麗な女の子がいるって噂になっているから」
 屈託なく笑って、モルフィナは首を傾げた。
「突然声を掛けてご免なさいね。私、貴方と友達になりたいのだけれど、良いかしら?」
「良いかしらって……別に構わないけど」
「良かった!」
 無邪気に喜び、はにかむ。
 これだけ感情を顕にして恐怖を露とも感じない辺り、相当勘が鈍っているらしい。
 昼食の時間まで一緒に過ごさないかと強引に誘われ、そのまま彼女が神殿に入って早々に作った集団の中に招かれた。
 いわゆるお喋り組だが、そこで私は、モルフィナが神殿の維持修復を生業とする一族の末娘であること、実は随分と前から入殿を決められていたこと、などを知った。
 中にはこうした特例で入殿する者もあるのだ。
「最初から決まっていたなんて信じられない。私ならきっと、おかしくなっちゃうわ。
 でもモルフィナは凄く親切でね、皆に声を掛けて、候補生が一人で悩んだり苦しんだりすることがないように、考えてくれているの」
 候補生達が輪になって庭で過ごす中、端に座って少女達の会話を聞いていた私に、そっと耳打ちしたのは例の入殿を拒否して泣いていた少女だった。
 彼女の名前はルーナ。豪商の一人娘であるらしい。
 父親が借財に困って自分を神殿に売りつけたのだと、何の憤りもなく話す彼女の様子は、とても落ち着いて見えた。
 その理由は、入殿の初日にモルフィナに諭され、辛抱強く慰めて貰った故のものであるらしかった。
「私、恥ずかしい。条件はみんな同じなのに、一人で泣いたりして……一生懸命頑張れば、生きてここを出られるんだもの。諦めずに奉仕しなければいけないわよね」
 生きて出られる。
 その言葉を私は口の中で反芻した。
 違う。
 そんな目的の為に、私は入殿したのではないのだ。
「……そう言えば貴方、背中に痣があるのね。あれは生まれつき?」
 しばし沈黙し、やがて思い出したように言った私に、ルーナは恥ずかしそうに頬を染めた。
「嫌だ、どうしてそのこと……沐浴の時ね? でも、そう。背中に一つだけあってね、お陰で襟の開いた服が着られないの」
「そう」
 私は安堵した。
 一つしかないのなら、問題はない。
「それよりリディア、貴方はどちらのお生まれなの?」
 折角の新しい仲間が少しも会話に加わらないので、お人好しのモルフィナが、いよいよ直接私に話をふってきた。
 途端に、興味深げな視線が一斉に私に向かう。
 私は僅かに困惑した。残念ながら私の過去は、喜んで披露するようなものではなかったからだ。
「……あの、話したくないのなら別に良いのよ。ねえ、皆」
 やがて押し黙ったままの私に気付いて、モルフィナが言った。
 神殿に入る者の過去が総じて平穏なものばかりでないことを、ようやく思い出したらしい。
 束の間気まずい空気が流れたが、すぐに少女達の話題は別のものへと移っていく。
「そう言えば、ここに入る前に聞いたのだけれど……今回の候補生達の中には大逆人がいるのだそうよ。何でも占いを使って、ミネルバの未来を告げたのだとか」
「静寂の神の神託以外には、占術を行ってはいけないのよ。法で禁じられているのに、それを知っていて、告げたの?」
「だから問題になったんじゃないの」
 一人の候補生の言葉に、私を除いた全員が頷いた。
 ミネルバには宗教的に禁じられた幾つかの項目があるが、その一つが『占術』なのだ。
 神がまだ人との交流をはかっていた頃、人々の前に現れた神は、過去は魔物の為に、現在は人間の為に、そして未来は神の為にあると告げた。
 その為、静寂の神を崇める者達は、他神や人間の手により、全て過去と未来とを覗く行為を禁忌とした。
 神官王が国の柱となってからはこの禁忌がそのまま国法となり、故に未来を知る手段でもある占術は、それだけで大逆の罪とみなされるようになったのだ。
「占術が禁忌だなんて、ミネルバでは赤子でも知っていることよ。それなのに国の未来を占うだなんて、馬鹿なことをしたものね」
「その占師の告げたミネルバの未来って、何だったのかしら」
「さあねえ。でもその占師は七十を越えた老婆らしいから、候補生の中に混じっていると言う噂は嘘ね。いずれにせよ、無事でいるとは思えないけれど」
「占師は捕らえられてすぐに処刑されたわ。神殿に入ったのは、孫の方」
 冷ややかな声に、再び候補生達の視線が私に向かった。
 私はゆっくりと立ち上がる。
「その孫が私なのよ。良かったわ、自己紹介の必要がなくなって」
 全員がぽかんとする中、私は装飾の成された中庭の床を踏みしめながら、回廊に出た。
 気まずそうに言葉を交わす少女達の気配を背中に感じたが、さすがに私の後を追って来る者はいないようだった。





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