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「感謝祭(カーニバル)」

【5】
 いつもの様に女中の手から報酬を貰うと、ネイナは礼を告げて、屋敷を出た。
 ヘルストックは彼女が抱える客の中でも随分な上客だ。受け取った袋の中には、重い硬貨が何枚も入っている。
(ガゼルさん、今日はじっとしているかしら)
 短い昼の間だけ差す陽光の下を、ネイナは吐息と共に通り過ぎた。寝台の上に横になっている筈の姿を思い浮かべるうち、すぐに駄目だ、と首を振る。
 じっとしている訳がない。彼は絶対に町を放浪しているだろう。
 ガゼルは大抵のことに素直だったし、ネイナにも従順な反応を示す大変に良い患者だったが、ただ一つ、家主の知らないうちに家を抜け出して町を出歩く、と言う悪癖(?)があるのだった。
 怪我は着実に治癒しているが、いかんせん、傷がくっつかないうちに歩き回るので完治には至らない。
 それを心配して幾ら注意しても、ガゼルは頑固に「一日でも早く妹を探したい」のだと突っぱねて放浪癖を改めようとはしなかった。
 そして努力の割には、妹の情報は少しも集まらない様子なのである。
 そりゃあ、とネイナはこの日何度目かの溜息をつく。
 彼の様な人にすれば、家でじっとしているなんて苦痛以外のなにものでもないのだろうが。
(まるで期限付きの捜索に取り組んでいるみたいだわ、ガゼルさんは)
 と言うより、感謝祭が訪れる前にことを解決しようとしている様な……。
 慣れない初夏の太陽の光がネイナの肌を焼いていた。感謝祭に向けて集まり始めている観光客達が狭い水路脇の道を歩く中、ネイナは僅かにめまいを覚えて立ち止まるる。
 音が聞こえないネイナにとって、この時期の町中は物騒な場所以外のなにものでもない。
 壁際に寄って日陰に隠れると、額の汗を拭って目を閉じた。
 瞼の向こうの視界が陰ったのはその時だった。
 ネイナは目を開いた。四人程の達が、自分の周りを取り囲んでいる。
(なに、この人達)
 咄嗟のことに、怯えを感じるよりもむしろ、ぽかんとした。
 そうしている間にも彼らはネイナを囲んだまま静かに移動を始め、やがて押される様に建物の影に入った頃には、ネイナにもようやくこれがのっぴきならない状況なのだと理解出来た。
 男の一人が何かを呟く。慌てて顔を上げると、唇が閉じる直前に間に合った。
 読み取れた言葉は短かった。……を書いた女だ。この女が? 記憶にあるうちに書かせてしまえ。
 けれどそれらの言葉の意味を理解するまでには到らない。
 次々に口を開く男達の険悪な空気に怯えながら、ネイナは長身の男達の作る影の中でぴくりとも動けなかった。人違いではない、彼らはネイナの顔を確認する様な視線を向けている。
 やがて彼らの一人が、ネイナの両肩を掴んで言い放った。
『今、あの屋敷の主人に設計図を渡して来ただろう。それと同じ物を書いて、俺達に寄越すんだ』
(ヘルストックさんのことだわ)
 ネイナは青くなった。それでは屋敷を出た直後から狙われていたのか。
『おい! 耳が聞こえなくとも唇は読めるんだろう。設計図を渡せばお前は無事に解放してやる。ただし沈黙を守ると約束して貰わなければならないが……どうだ、書くな!?』
 罵声の様な声が聞こえた訳でもないのに、その勢いと気迫とにネイナは身を震わせた。
 設計図の内容なら覚えているし、もう一度同じ物を書けと言われれば勿論出来るだろう。
 けれど何故彼らがそんな物を必要としているのか、その目的が分からないままでは簡単に頷く訳にはいかない。
 それでも彼らの表情は皆一様に厳しく、黙ったままやり過ごせるとは到底思えない状況だった。
 仮に男達の申し出を承諾したのだとしても、ここでは当然ながら設計図なんて書けないから、ネイナは一時的に解放して貰えることになるだろう。
 それでも彼らが再び接触して来た時、本当に無事に見逃して貰えるのか……何より。
(ヘルストックさんの身に何かあっては)
 申し訳が立たない。そう思って俯いた時だった。
 不意に視界の一方が開かれた。光が差し込み、ネイナを取り囲んでいた男の一人がふっと視界から消えたのだ。
 振り返る男達、音もなく崩折れ、倒れ込む姿。
 ネイナは呆然と、新たに現れた青年の姿を眺めた。
『何してるんだ! こいつらは本気だぞ、逃げろ!』
 大きく開いて言葉を形作った青年の口が、ネイナの意識を叩いた。
ようやく我に返ったネイナは、咄嗟にのばされた青年の手を握って建物の影から逃げ出した。
 突如現れた二人の姿に大通りの観光客達が悲鳴を上げたが、青年は構うことなく、その姿を突き飛ばす様にして通りを走り抜ける。
 恐ろしくて振り返ることも出来ないから、ネイナはただ、自分を引っ張って走る青年の後ろ姿だけを見つめて走った。さらさらと風に揺れる短い黒髪、華奢な後ろ姿。容姿からして、先程の男達同様シニョン外部から訪れた人間の様に思われた。
 観光客が偶然脅されるネイナを見咎めて、助けてくれたのだろうか。
 随分と走ったところで二人は足を留めた。
 観光客をかき分けながら走ったので、後ろから追い付いてくる人の流れが非難がましくこちらを見ている。それを無視して、ネイナは荒い息を整えながら何とか顔を上げた。
『……大丈夫だった? 連中、もう追いかけては来ないよ』
(あ……)
 どきり、とした。短く切った黒髪、ぬける様な白い肌に深い緑の瞳、まるで女性の様に繊細で奇麗な顔をした青年が、汗を拭いながら斜めにこちらを眺めている。
『あ、の。有り難う、ございました』
『構わないよ。何だか不穏そうだったから、咄嗟に割り込んだんだ。却って余計なことをしたかな?』
『まさか! 本当に助かりました。私、どうして良いか分からなくて』
『それなら、良かった』
 青年はにっこり笑った。邪気のない綺麗な笑顔だった。
『もうすぐ祭りで観光客も多いから、ああ言う妙な連中が出て来るんだろうね。脅されていた様だったけど、ええと……』
『あっ。失礼しました、私、ネイナと言います。ネイナ・ログワル』
『いや、そうじゃなくて。心当たりはあるの? ああ言う連中に』
 問われて、ネイナは口ごもった。
 まさか。ある訳がない。
『私が仕事で書いた設計図が見たかった様なんですけど、何がなんだか』
『君が、設計図を? それなら依頼人のごたごたに巻き込まれたのかも知れないね』
『そんな……ヘルストックさんは、そんな方には見えなかったのに』
 ヘルストックに仕事を頼まれる様になったのは、もう随分と前のことだ。今では常連客と呼んでも差し支えないし、その間の彼の態度はとても紳士的で、ネイナにも親切だった。
 暮らし振りは豪華だが自ら金に溺れる種の人間には見えないし、何より品の良い雰囲気を漂わせていたから、もしかしたら相当な地位にある軍人か何かではないかと思っていた。
 設計士達には暗黙の了解があって、相手が自ら口にしない限りは、依頼人の素性を尋ねては行けないことになっている。
 それは戦争時代に利用されていた設計士達が、身を守る為の知恵でもあったのだが……それでもヘルストックがシニョンに姿を見せたのはそう昔のことではなく、恐らくはシニョンの有権者の知己か何かなのだろうと推測出来た。
(権力争いに巻き込まれたのかしら。だとすれば、今日のことはヘルストックさんにもきちんと報告しておいた方が良いわ)
 ぐっと身体に力を入れた途端、暖かい手が両肩を包み込んだ。
 驚いて青年を見上げると、彼はネイナを力づける様に少し笑って、優しく肩を叩いてくる。
『落ち着いて。妙なことを言ってご免ね、だけど一度ああしたことがあれば、連中だって注意して動く様になるだろうから……心配ない、と言うのは妙な話だけど』
 気付けば、ネイナの身体はずっと震えていたのだった。青年はそれを知った上で慰めてくれたのだ。
 これまで見たこともない程綺麗な濃緑の瞳が、真っ直ぐネイナを見つめている。
 私の身体が震えているのは、もしかしたら恐怖と興奮の為ばかりではないのかも知れない、とネイナは思った。
 突然現れてネイナを助けてくれた美しい青年、それはまるで幼い頃に読んだ絵物語の様な出来事だったから。
『あの、お尋ねしても良いですか?』
 そう切り出すと、青年はえ、と不思議そうな顔をする。
 その表情に真っ赤になりながらも、ネイナは勇気を振り絞って尋ねた。
『貴方の名前を……教えて下さい』
『ああ、そうか。まだ名乗ってなかったよね。僕は、』
 言葉が途切れた。
 青年はふと表情を陰らせ、しばしの間躊躇する様に黙り込んでいたものの、やがてすぐに微笑み、口を開く。
『僕の名はイシリオン。イシリオン・ガーゼイと言います』







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