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「落ちてゆく夢の終わり」

霧練りの少年B
 空のまちでは既に、パレードの列が弧を描く煉瓦道を下り始めている。
 しばらく歩き続け、集まった人々の波が途切れる頃にようやく、タカシと子供は黄土色の壁と真っ赤な屋根の小さな家の前に立った。
 タカシが玄関の鍵を開けると中に灯りはなく、ただ小窓から差し込む陽光だけが室内を照らしている。
 どうやらおじさん達はまだ祭り見物から戻っていないらしい。
(だけど、参ったなあ。こいつの事、どうやって説明しようか)
 何週間も前から祭りを楽しみにしていたおじさん達だ、聖雲祭の終わりを告げる午後の鐘が鳴るまで、家に戻ってくることはないだろう。
 だからタカシの外出に気付かれる心配もないが、留守番をしていた筈のタカシの側に見慣れぬ子供がいるのは少しおかしい。
 友達が遊びに来たのだと説明するにも、それ程広くない空のまちではほとんどの人間が顔見知りだから、どこから来たのか、と聞かれたらおしまいなのだ。
(まあ、どうせこいつは余計なことを言わないんだし、いざとなったら幾らでも言い訳が出来るか)
 一人でそう結論づけると、タカシは背後からついて来る子供を振り返った。
「あのさ。悪いんだけど、ちょっとここにいてくれないか。二階に用があるんだ。どうしてもって言うなら、別に逃げ出してくれても構わないんだけどさ」
 タカシの言葉に、子供はきょとんとしている。
 どうやら当人に逃げる意思はまったくなさそうだ。
溜息をつくと、タカシは玄関に敷かれた柔らかい敷物の上から二階を見上げて、階段を上り始めた。
 子供が走って逃げてくれれば、それでロウジに言い訳が出来るんだけど……そう思って振り返ったものの、やはり子供はきちんと階段の下に立って、こちらを見上げていた。

「ナナ」
 ようやくたどり着いた二階で、三つある部屋のうち、一番奥の部屋の扉を叩く。
 けれど返事はなく、タカシは僅かな落胆の色を見せながら静かに扉を開けた。
 部屋の中は、まるで薄暗い青い水を閉じ込めたような色合いだった。
 カーテンの青色が陽光を受け、室内を染め上げているのだ。
 そして、その奥のベッドから聞こえるのは、規則正しい小さな寝息。
 そっとそちらに近付くと、タカシは眠る少女の……妹の顔を覗き込んで、そっと言った。
「ナナ。俺だよ、一人で留守番させてご免な」
 もう何年も太陽の光にさらされていない妹の肌。じっと見ると、血管が浮かび上がりそうなほど青白く透き通っている。
 閉じられた瞼はあまりにも長い間そのままだったから、今ではその奥にある瞳が何色だったのかさえ、忘れてしまいそうだった。
 まだ十になったばかりの小さな妹。
 ふっくらとしたその顔は、もう何年も表情を作っていない。
 いつ見ても変わらない妹の様子に溜息をつきながら振り返ったタカシは、その時、部屋の入口に立つ子供の姿にようやく気付いた。
 いつ上がって来たものか、子供はじっと、タカシと妹とを交互に眺めていたのだ。
 咄嗟に文句を言おうとして、タカシははっと口をつぐむ。
 子供から、先程は微塵も感じなかった筈の不思議な空気を感じ取ったからだ。
 そのまま近寄ってタカシを見上げた子供は、事情の説明を求めるようにこちらを見上げてくる。
 その眼差しとしぐさに助けられた思いで、タカシは口を開いた。
「……妹だよ。病気で、もうずっと眠ったままなんだ。この病気の事は知ってるだろ?」
 子供が小さく首を傾ける。それはどちらとも取れる微妙な仕草だった。
 ナナが病気になったのは、タカシとナナの両親がまだ健在だった頃のことだ。
 父がムネリとして働き、母も元気に過ごしていた頃。
 そう、当時広がりつつあった奇病が小さなナナまで襲うだなんて、誰も想像していなかった。
 その病気の名を、眠り病と言う。
 名の通り、少しずつ眠る時間が長くなって、最後には永遠に目覚めなくなってしまうという、恐ろしい病気だ。
 眠り病は、その発症原因さえ不明なまま大陸中に広がったが、唯一人々を安心させたのは、この病が感染病ではない、と証明されたことだった。

お兄ちゃん。私、夢を見るのよ。

 まだ病が軽い頃、目覚めたナナは虚ろな瞳でそう呟いていた。
 不思議なことに妹の夢の内容はいつも決まっていて、それは自分を含めた沢山の人達が、大きな部屋の中で眠っている、と言うものだった。
(ナナが起きても、みんな眠ったまんまなの。お兄ちゃんもその中にいるんだよ。とっても静かだった……)
 ……両親は可哀相なナナの為に、今まで以上に働かなければならなくなった。
 少しでもナナの治る見込みがあるならと、沢山の医者に見せたり、様々な治療法を試したりもした。
 そうして当時からムネリ職人の減少が問題になっていた中、父親もまた、稼ぎの少ないムネリの仕事をやめてしまったのだ。
 けれどその頃には、もう誰もムネリの不在を惜んだりはしなかった。
 眠り病の蔓延や隣国で起こった紛争の為に、それどころではなくなっていたから。
 タカシの両親は働いた。働いて、働いて、過労と病とに倒れて命を落とすまで働き続けた。
 後には眠ったままのナナとタカシだけが残されたが、運良く父のムネリ仕事のお得意様だったコーダ夫妻が、二人の身元引き受け人になってくれたのである。
「だからおじさん達には感謝してるんだ。凄く良くして貰ってるし……でも、こうしてたってナナの病気は治らない」
 悪化するごとに睡眠時間が増えていくというのなら、妹は多分、末期患者に分類される筈だ。
 だって彼女は、最近ではもうほとんど目を開けなくなっている。
 最後に声を聞いたのだって、一月も前のことだ。
 少しずつ死に向かう身体。なのにタカシにはどうしてやることも出来ない。
 亡くなった両親も高名な医者も、誰もナナを助けられなかった。
 ……だけど。
 方法はまだ、残されている。
「湖の国の五番目の王女様が、眠り病にかかったのに助かったって噂があるんだ。病気を克服したのはその人だけだから、俺は絶対に王様に会って、どれだけ難しい方法でも良い、ナナを助ける方法は何ですかって聞きたい。……これは皆には内緒なんだけどな」
 夢を紡ぐ父親が誇りで、その技術を僅かでも受け継いでいる自分が誇りだった。
 いつか父のように森の都の空を彩るムネリになりたいと願い続けて……まさか自分が、将来その技を使って隣国に行こうとするだなんて、夢にも思わなかった。
 これが、大金を積まれても絶対に森の都を出ようとはせず、自分の生まれた都を愛し続けたムネリ達の、その心を踏みにじる行為だと分かっていたのだけれど。
「お前、隣の湖の国から来たんだろ? 俺は一度も見たことがないけど、あっちは森の都よりずっと大きくて、空を飛ぶ機械だとか、海を渡る機械だとかがあるんだってな。それなのにムネリを欲しがるなんて、本当に変な話だよ」
 隣の湖の国には何でもある。
 長い歴史を振り返っても、湖の国の王様が手に入れられなかったものはただ一つ、ムネリの技術だけだったのだと言う。
「むねり」
「ああ、そうか。湖の国から来たんなら知らないよな。ムネリは雲を紡ぐ職人の名前だ。雲で色々な形を作って、空に」
 言い掛けて、タカシははっとした。
「お、まえ、」
 振り返り、思わずごくんと生唾を呑んだタカシに、子供は相変わらずにこにこと微笑んだまま。
 しかし間違いない、タカシは確かに聞いたのだ。
「……お前、喋れるのか!?」
 咄嗟に叫んだタカシに、子供は大きく目を開いてもう一度、
「むねりっ!」
「う……そ、だろ。どうしてお前、喋れるならもっと早くに……ロウジだって」
 言いかけて、タカシは思わずほっとした。
 ひとまずこれで、ロウジが人身売買に手を染めることはなくなった訳だ。
 いや、もしかしたらロウジのこと、足がつく頃には自分達は隣の国にいるよ、なんて無理にでも行動に移ってしまうかも知れないが、とにかく子供が喋られるなら、打てる手は幾らでもあるだろう。
 タカシが考え込んでいる間にも、子供は嬉しそうにむねり、むねりと言いながらタカシの横をすり抜け、あっと思った時にはもう、ベッドのすぐ側にまで近づいていた。
「おい」
 呼び止めかけて、すぐにタカシは言葉を呑む。
 子供の顔から、いつの間にか笑みが消えていたから。
 思えばそれは、タカシが初めて見る子供の真剣な表情なのだった。
 青緑の瞳を真っ直ぐ向けながら、小さな寝息だけがその命の証のように眠るナナの手を取る。そこに「幼さ」は一切なく、ただ、柔らかい空気だけを身にまとう子供が立つばかりだった。
 いつの間にか、ぎゅっと手を拳にしている自分に気付いて、タカシは生唾を飲み込んだ。
 何故だか分からないけれど、ひどく緊張している。
 口の中がカラカラに渇いて、瞬きも忘れたまま子供の仕草を見守るほどに。
 やがて子供は、包み込んでいたナナの手を再び胸の上に戻し、その上にもう一度自分の手を重ねた。
 ……そうして。

「お…にい……ちゃん……」

「うそ……だろ」
 呆然と、タカシは呟いた。
 ナナの瞼がかすかに動いたかと思うと、ゆっくり、その唇が言葉を紡いだのだ。
 それだけではない、これまでどんな手段を用いようとも目覚めることのなかった筈のナナが、今ではしっかり目を開けて、タカシと、子供とを見つめている。
「おにいちゃん。この人は、だあれ?」
 やがてかすれ声で囁いたナナに、子供はひどく誇らしげな顔で、こちらを振り返ったのだった。





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