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「落ちてゆく夢の終わり」
- 壺毒の病L
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「タカシ」
名を呼ばれて、タカシはようやく瞳を開いた。
先程まで雲の重さにくじけそうだったのが嘘のように、今のタカシは胸いっぱいに広がる開放感の中にいた。
世界が優しく、軽く、穏やかに感じられる。
後ろでは、子供が満面の笑みを浮かべてタカシを見つめていた。
「すごく、きれいなむねりだよ」
タカシはもう一度、塔の外を見る。
ああ! そこに広がっていたのは、これまでタカシが見たこともないような大きな雲の固まりだった。
霧練りの塔に集まったはずの雲は、さらにその密度と量を増して外に広がり、今やタカシ達の視界は白一色になっていたのだ。
雲はやがて、どろりと溶けて空の青と一緒に流れ落ちていく。あちこちにぽつぽつ開いた穴から覗くのは、見えるはずのない、時間はずれの夜の空。
満天の星空だ。
「……これ……」
きらりと流れ星が空を横切り、美しい輝きに満ちた地上に落ちていく。
そこには、これまでにタカシが見たこともないような建物の群があった。
信じられないくらい高い四角い建物。空に張り巡らされた道路のようなもの。天上の輝きすらかすむほど、地上の建物からは眩しい色とりどりの輝きが溢れている。
初めて見る光景のはずなのに、何故かタカシはそれを『懐かしい』と思った。
そう……確かにどこかで見たことがあったのだ。
遠い昔、地上には光と人が溢れ、人に似せて作られた機械が辺りを歩き回り、馬よりも早く動く箱があちこちを走っていて……。
どうしてだか分からない涙が、タカシの瞳から溢れた。
もうずっと、帰りたいと思って言いた場所。それは森の都でも、湖の国でもない……不思議で愚かな楽園の記憶。
帰っておいで、と呼ぶ声がした。
気付くとタカシは幼い日の姿に戻っている。帰っておいで。呼ぶのは懐かしい母の声。帰っておいで。父も、友達も、知人の大勢も、1人残らず笑いながらタカシを呼んでいた。
固い地面を蹴って駆け寄る子供はタカシだ。そうして、タカシ以外の全員でもある。
森の都へと進軍していた兵士達は、空のまちへと続く門や森の奥でその星星の輝く夜空、居並ぶ高層ビルを見上げて、無邪気な子供の頃の思い出に目を細めた。
どうして忘れていられたのだろう。あの頃、確かに自分は、この光景の中に暮らしていたのに。
ここではないどこか。それが何なのか理解できないのに、分かる。これは、本物の世界、自分たちが自らの愚かしさの為に失ってしまった遠い日の『故郷』なのだと。
彼らが手にしていた武器は、一つ、また一つと地面に転がり落ちていく。
けれどもう、誰もその音に気付かない。もはやそこに武器を必要とする人間はいなかったからだ。
……それは奇跡のような瞬間だった。
沢山の者達が待ちこがれ、絶望し、そのたびに遠ざかっていた未来。今にも途切れようとしていた希望は、この時確かに人々の眼前で輝いていた。
*****
からからと回り出す歯車。それは遠い昔の記憶を糸のようにからめ取る。
人々の意識の片隅を流れていく記憶の断片。さらにその中を横切る沢山のもの。
いつの間にか、タカシは雲の中にいた。柔らかい白い綿菓子に、包まれる心地で浮かんでいる。
ここは塔の中ではない……不思議に思って見渡すと、すぐ目の前に、猫が立っていた。
「とても素晴らしい雲ですね」
その途端にタカシは思い出した。
夢の中で猫と交わした沢山の約束を、この時ようやく思い出すことが出来たのだ。
「猫。俺、失敗したのか? さっき確かに『本当』が見えた気がしたのに……お前がいるってことは、また、いつもの夢の中に入っちゃったんだよな?」
「夢と言うのなら、それは貴方達の見ていた世界こそがそうだったのですよ……ねぇ、タカシさん。一つ、昔話を聞いては頂けませんか?」
猫はタカシの問いに答えようとはせず、ぽつり、と、それだけを言った。
そうして語り出したのだ。長い長い、気の遠くなるような時間の流れを遡った先の、全ての始まりでもある物語を。
「タカシさん。貴方は湖の国の繁栄に驚いていたようですが、現実世界の人間達は、それ以上に高度な文明を築いていたのですよ。先ほど雲間から覗いた『現実世界の姿』を見て、薄々思い出しているかも知れませんが……我々はその記憶をあえて封じ、これまで貴方達を、高度文明から遠ざけていたのですがね」
人工物に包まれた都市。化学技術。人類の英知。それらのもたらしたもの。
タカシの眼前にあった雲が消え、代わりに巨大な都市が浮かび上がった。
森の都とも、湖の国ともまるで違う不思議な町並み。驚く程の速さで道を走る車、塔などより高い建物の幾つも。
世紀末を迎えた地球では、ありとあらゆるものが溢れ返っていた。
雑多な都市の光景は、容易にタカシを納得させる……熟し過ぎた文明。止まらない、坂道の上の車のように、加速し続ける時代。
ロボットと呼ばれる存在が生み出されたのは、丁度その頃のことだったのですよ。と猫は続けた。
「ロボットは、人に代わってあらゆる仕事を行う為に作られたものでした。我々の造り手であるマスターもまた、そんなロボットの一つだったのです。
彼はほとんど人と変わりない頭脳と心を持っていました。宇宙開発、特に遠い惑星で人が暮らせるかどうかの実験のために作られたロボットだったので、限りなく人に近付けて作られたのでしょう。やがて彼はある惑星での仕事を依頼され、数名の人間達と共に、スペースシャトルに乗り込みました」
そうして、宇宙に漂っていたシャトルの搭乗員達はそれを見る。
青い地球の上で、肉眼で捕らえることが出来るほどくっきりと輝いた光、灰色の煙……破壊の証を。
「地上では戦争が起こっていたのです。そうして、とても恐ろしい、たった一つきりの爆弾の為に、世界は滅びました。愚かなことに。
宇宙に残されたシャトルは、地球と交信出来なくなった状態で宇宙に漂い続けましたが、やがてコンピュータのプログラムに従って地上に降りました。けれどそこには何も残っていなかった。やがてシャトルの乗組員達も亡くなり、マスターは、ただ一つきり、荒れ果てた地球に取り残されたのです」
数え切れないほどの夜と昼とを繰り返し、やがてロボットは、地下シェルターに並ぶ幾多ものカプセルを発見する。
核戦争の結末を予想していた人類は、あちこちで冷凍睡眠装置を使い、生き延びていたのだ。
「マスターは何年も掛かってカプセルをひとところに集めました。そうして、広大な研究所と我々とを造った……人の脳をモデルに作られたマスターとは違い、我々は動物達の脳をモデルに作られたアンドロイドでした。彼はヒトに絶望していたのです。例え地球が何億年掛かって美しい姿を取り戻したのだとしても、そこに生きる人類が同じでは、また同じ結末を迎えるだけだと。
だから彼はある計画を考案した。自分の意識と眠り続ける人類の夢とを繋ぎ、その夢の中の世界で実験を始めたのです。全てをやり直せる夢の中の地球で、新しい文明を何度も何度も繰り返し作り出させると言う実験を。
彼は夢の中の世界で、必ず二つの対なる存在を作りました。希望の種と、破滅の種。今度の世界で言えば、夜伝と霧練りがそれです。巨大なモニターにパネルを作り、架空世界を構成する“意識”と繋げて、絶望が増えるごとに赤が、希望が増えるごとに緑や青が、パネルを染めることになっていました。
我々はマスターの命令通り、パネルを見て、人々の眠るカプセルの安全状態の点検を行ってさえいれば良かったのです。そうして、一度でもパネルが完全な希望をあらわす緑一色になれば、その時こそ、人々の長い眠りは終わりを告げる筈だった……」
猫の言葉を、タカシは呆然と聞いていた。
自分達がこれまで過ごしていた世界が全部夢だったこと。
試されていたこと。
一度は世界が滅んでしまったこと。
動物の姿をしたこの者達が自分達の夢をずっと監視していたこと。
そうして、彼らがロボットであること。
……何もかもが信じられなかった。余りにも突拍子がなさ過ぎる。
けれど、それなのにタカシは、すべてが本当のことなのだと心の何処かで理解しているのだった。
理屈ではない、心の中の研ぎ澄まされた何かが、それを本能的に悟っている。
「長い長い絶望の時。貴方達人間は、繰り返される文明を必ず破壊させ、或いは自らを失って、パネルを真っ赤に染め上げ続けた。我々は諦めかけていました。信じることに、何の意味があるのだろう。一方的なこの思いは貴方達人間に届くことはない。
けれど、そこに一つの変化が起こりました。幾度めになるか分からない夢の中で、突然一人の少年が自発的に目覚め、カプセルを抜け出してきたのです。
そう、タカシさん。貴方ですよ。希望として定められたムネリである貴方が、何故か私に語りかけてきた。
その時ちょうどカプセルを監視していた私は、周りの仲間にそれを悟られない為に、貴方のカプセルの監視システムをいじりました。私はもう一度信じたかったのです。今度こそ、あのモニターのパネル全てが、緑に染まることを」
「パネルは、」
どうなったの?
そう尋ねようとしたタカシは、猫の微笑みに言葉を失った。
胸につきんと痛みが走るほど、その微笑みは優しかった。
「……時間が迫っていました。貴方達を守り続けたカプセルにも、もう限界が来ていたのです。カプセルが使用耐年数を越えて機能停止すれば、中で眠る人間も無事では済みません。それで急ぐ必要があったのです。タカシさんの世界で広まっていた病、眠り病とは、カプセルの故障で現実に命を失いかけている人間達のことを意味していました」
「だから……だから、眠り病だったナナのカプセルは、ぼろぼろだったのか」
独白のように呟き、タカシは猫を見つめる。
そうして、もう一度同じ質問を繰り返した。
「パネルの色は、何色になったんだ?」
その呟きと共に、周りに浮かんでいた都市の光景がふわりと変化した。
隅に追いやられていた雲が再び都市の景色の上に重なり、奇妙なワルツを踊りながら、沢山の人の形を作り始めたのだ。
それはナナだった。コーダ夫妻や、リウや、ミッジや、ロウジやシンやカナやアドルス達だった。
彼らは呆然と辺りを見渡し、やがてその背後に巨大なパネルが広がっていく。
まるで絵の具をぶちまけたように、見る間に広がるその色は。
「貴方達の勝ちですよ、タカシさん。パネルは緑色になったんです!」
空の草原に負けないくらいの鮮やかさを持って、パネルは輝いていた。
ふわりと浮かんだ黒マントの魔術師が、照れくさそうに笑いながらくるくる回って、愛らしい赤ん坊の姿へと変化してゆく。
魔術師の名を絶望と言い、赤ん坊の名を希望と言う。
人間達に不要な“もの”から、必要な“もの”へ、それは長年の哀しみがようやく癒された瞬間でもあり。
……そうして人々は、ようやく、目覚めた。
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