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「落ちてゆく夢の終わり」

霧練りの少年D
 ナナが再び深い眠りについたのは、食事が終わったすぐ後のこと。
 やはり目覚めは一時的なもので、ナナは眠り病から完全に解放された訳ではなかったのだ。
 ソファの上でぐっすり眠り込んでいる妹を抱えて、タカシはそっと二階に向かう。
 そのままナナの眠りが深いことをコーダ夫妻に説明すると、夫人は食器を洗う手を止め、コーダ氏も途中まで済んでいた帳面の計算を放り出して肩を落としてしまった。
 子供だけが何の事情も知らぬ様子で、元気にタカシの周りを駆け回っている。
 その後、コーダ夫人は小さな客人の為に、洗い立ての寝具を用意してくれた。余分な部屋がないので、子供は今夜、タカシの部屋で眠るのだ。
 居間の暖炉から離れた二階への階段は、すっかり冷えて震えが走る程だった。
 タカシはなるべく急ぎ足で階段を上ると、くっついて来た子供を部屋に引っぱり込んで、ぱたんと扉を閉めてしまう。
「お前さあ、」
 タカシのベッドの脇に、長椅子を運んで作った簡単な寝台。
 その上に寝間着姿で座った子供を、タカシは斜めに睨み下ろした。
「どうしてあんなこと言うんだよ」
「?」
 大きな目をこちらに向けて、首を傾げる子供。
 癇癪を起こしたタカシは、その顔に向かって干し草の詰まった枕を思い切りぶつけてやった。
「とぼけるなっ。誰がムネリだって? 俺に聞くまでムネリって言葉も知らなかった癖に」
 子供は楽しそうにきゃらきゃら笑うと、枕を拾って、今度はタカシに投げ付けた。
「おい答えろって……痛ててっ。お、俺は別に怒ってる訳じゃないんだぞ。ただお前が、どうしてムネリって名乗ったのかが不思議で」
 タカシの部屋は屋根が低い。
 屋根裏部屋みたいに天井が斜めだし、太い柱が何本もその上を這うようにして横切っているからだ。
 けれど自分にあてがわれたこの部屋を、タカシはとても気に入っていた。ここは昔、若くして亡くなったコーダ夫妻の子供の部屋なのである。
 病弱で、窓の外の景色だけを楽しみにしていた少年の、孤独な城。
 コーダ氏は森の都で一番の建築会社の経理課に勤めている。
 仕事中だけ眼鏡をかけていて、どうして普段は眼鏡をしないのかと尋ねると、恐い顔に見えるし、息子に嫌われたくないからだと説明された。父親の紹介で初めてコーダ氏に会った時のことだ。
 子供好きなコーダ夫妻は、自分達の息子がどうすれば幸せになるのかを、ずっと考えて暮らしていた。
 だから息子が見たいと望んだ景色や動物の姿を、タカシの父親に頼んで “霧練って”貰っていたのだった。
 ベッドから起き上がれない息子が唯一楽しみにしていた、窓の外の景色。タカシの父は、そんなコーダ夫妻の息子の為に、ムネリで窓の外にありとあらゆるものを浮かばせた。
 今でもコーダ夫妻は、タカシにこう語る。
 あんたの父さんは優秀なムネリで、いつも空のまちの人達がびっくりするような仕事をしていたんだよ。
 父はタカシだけでなく、空のまちの住人全員の尊敬を集めていた。
 つまりムネリの名は、このまちに住む人々にとって、特別で神聖なもの。いくら事情を知らないからといって、勝手に使って良いはずがない。
「大体おまえ、海の向こうから来たなんて嘘ばっかり言うしさ……とにかく、ムネリって名前だけはやめとけ。な?」
「やだ。ムネリがいい」
「やだって……ムネリが何なのかも知らない癖に!」
「しってるよ。げいじゅつかさん! ね、みせて」
 片言で意思表示すると、子供はしっかりタカシの服の袖を掴んだ。
「な、何だよ」
「むねり、みたい。みせて」
「ムネリの技をか? 無茶言うなよ、森の都にはもうムネリなんていないんだから」
「たかしがムネリ。ちがう?」
 タカシはもう一度子供を睨むと、その手を乱暴に振り払った。
「俺は違うの。名前だけだよ。父さんにはロクに技も習えなかったし」
「できるよ。たかしはムネリ」
「だから違うって言ってるだろ! 大体、今頃の雲は雪だの雨だのを含んでるから重いんだ。父さんでも苦労してたんだからな。例え……例え、だぞ。俺が雲を練ることの出来る『ムネリ』だったとしても、普通こんな時期に仕事なんかしないものなの!」
 いつ自分は、この子供にムネリの技のことを話したのだろうか。
 背筋に冷や汗を伝わせながら思い出そうとしたが、その辺りの記憶はひどく曖昧だった。
 そもそもこの子供が喋れるなんて知らなかったから、黒い渦では、思いつくままに喋っていた気がする。
 例えば、ムネリとして隣の湖の国に行くつもりだとか、人身売買の件だってそうだ。
 ……失敗したかも知れない。
 コーダ夫妻には、少なくとも森の都を出るまでの間、旅立つことを秘密にしておきたいのに。
「ねって。くも」
 悩むタカシの心を知らずに、子供はひどく熱心にお願いしてくる。
 タカシはうんざりしながら、見上げてくるその顔に、干し草の枕をぎゅうっと押しつけてやった。
「じゃあ、明日綺麗に空が晴れて、練りやすい雲が流れてたら考えてやる。真似事くらいしか出来ないだろうけどさ」
 子供の顔が、ふわあっと嬉しさに膨らんだ。
 タカシはそれが笑顔になるのを見届ける前にベッドに潜り込むと、頭まで布団をかぶって子供に背を向ける。
「いいか。明日が駄目なら諦めるんだぞ。ぜーったいだからな!」
 とは言いつつも。
 悪態をつくその裏で、タカシは密かにわくわくしていたのだ。
 これまで自分にムネリの仕事を頼む人なんていなかった。それはタカシ自身が、父から受け継いだ技術のことを誰にも話さないでいた為でもあったが……。
 だけどこの子供は違う。
 子供の持つ純粋な期待は、それまで渇いてひび割れそうになっていたタカシの“誇り”を癒してくれた。
 何故ならこの子供は、タカシにとって生まれて初めての“お客さま”だったのだから。




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