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「かみさまの木」

六条家の謎C
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 申し訳なさを反省に換え、出来るだけ安静にしよう、と心に決めてからわずか数十分後。
 驚いたことに、そうは出来ない状況が向こうから飛び込んできた。
 全くもって予想外の客人が幸里の前に現れたのである。
「この様な時刻にお邪魔する非礼をお許し下さい。松之助様は、こちらにいらっしゃいませんか」
 陸市だった。
 訪問の時刻が珍しいなら、彼がここまで慌てている姿も非常に珍しい。
「松之助、ですか。今日は一度も顔を出していませんが、彼がどうかしたんですか?」
「それが夕刻に出掛けられたまま、未だ家に戻って来られないのです」
 基本的に彼が新居邸に顔を出すことは滅多になかったのだが、それでも松之助のお付きとして時折訪れる陸市への家人の印象は、意外なことに大変良かった。
 意外に、と言うのは何も陸市がそれに値しないと言う訳ではなく、大体において幸里が絡むと攻撃的になる淀見執事その他の使用人達が、彼を手放しで歓迎していると言う状況が意外なのである。
 同じ使用人として何か思う処でもあるのか、それとも彼の日頃からの誠実な態度、様子が好感を招くのか、いずれにせよこんな時刻の訪問を許されて幸里の居る座敷に通して貰えたのは、客人が陸市であったからこそだろう。
 幸里はもう一度、舶来の仕掛け時計を振り返った。
 午後九時三十分過ぎ。
 確かに遅すぎる。
「どこに行ったのでしょうね。僕も、彼が今日顔を出さなかったので、どうしているのかと思っていたんです」
「……そうですか。実は気がかりなことが一つあったもので、失礼を省みずにお邪魔してしまいました。本当に申し訳ありません」
「待って下さい。その気がかりと言うのは?」
 今にも回れ右をして帰ってしまいそうな陸市に尋ねると、彼は急いで振り返り、それが、と言いにくそうに切り出した。
「幸里さまはご存知でしょうか、私がある筋を当たって三沢昌子さんの足どりを探っていたと言う話を」
「知っています。松之助から聞きました」
「その筋から今日、連絡が入ったのです。連絡と言うより直接足どりを書き込んだ地図を持ってきて貰ったのですが、しかし生憎とその時、私は仕事で席を外しておりまして、代わりに松之助様がその地図をご覧になった様なのです。姿を消したのはその後のことでしたので、つい不安になりまして」
「その地図、今お持ちですか」
 はやる心を落ち着けながら尋ねると、陸市は背広の懐から折り畳んだ紙を一枚、取り出した。
 彼が何か言う前にそれを受け取り、畳みの上に広げた幸里は、しばし地図を凝視してはっとした。
「真っ直ぐ、一つの方向に向かって印がついていますね。見当はつきますか」
「はい。恐らく印の先にあるのは……松之助様が当たりをつけたのは、六条男爵家ではないかと」
 今度こそ、幸里は息を呑んだ。
「それに気がかりがもう一つ。この地図を持ってきた男が、実は以前に起こった郵便柱函の破壊事件の犯人が六条家の使用人であると教えてくれたのです。私は事情の全てに通じている訳ではありませんが、松之助様が一人で六条家に乗り込んで行かれるのがどれだけ危険なことなのかは、薄々分かります。こちらにいらっしゃるのであれば良い、と念じていたのですが……」
 郵便柱函。
 頭の中で鳴り響いていた警告が取り払われ、その向こうにある本当の気がかりの形が闇の中にくっきりと浮かび上がる。
 郵便柱函。松之助に六条家訪問の話を聞いた時、帰り道で浮浪者に話しかけられ「郵便柱函を壊したのはお屋敷の使用人である」と言われたのだと聞いて……微妙に、その一連の話が心の隅に引っかかっていたのだった。
 それなのに余りにも色々なことが一度に頭の中に詰め込まれたので、全てを関連づけて考えるのは危険なことだと反省し、それらの考えを消し去った。
 その筈、だったのだが。
 けれど本当はずっと疑い続けていたのではなかったか。
 この事件もまた、昌子の事件に深く関与しているのではないか、と。
「松之助が危ない」
 思わず呟いた幸里に、陸市が驚いた様に顔を強ばらせた。
「今、何と?」
「陸市さんの言う通り、いま六条家に行くのは危険です。昌子さんを殺した犯人はもしかしたら六条家の使用人かも知れないんです。そんなところに松之助が乗り込んだら」
 郵便柱函を壊した目的は何なのか。
 そう考えた時、初めて幸里の胸に恐ろしい予感が生まれた。
 壊したのは、悪戯などではない。中身に用があったからではなかったのかと。
(もしかしたら、昌子さんは誰かに手紙を出していたんじゃないの?)
 そうしてそれを知った使用人が、手紙を取り返す為に郵便柱函を壊した。
 全てはただの推測だった。
 けれど得体の知れないどろどろとした思いが幸里の胸のうちに巣くい、今尚警告を発し続けている。
「陸市さん、僕を今から六条家まで連れて行ってはくれませんか。それも出来る限り、うちの家人達には内密で。お願いします!」
 安静に過ごす、と言う決意は、こうしてもろくも崩れさったのであった。





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