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「天涯比隣」
- <其の十>
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- その植物が最初に人間の子供と出会ったのは、ある暑い夏の日だった。
暑い、とは言っても滝の裏側の洞穴は年中涼しく、その植物に『暑さ』と言う感覚は理解できなかった。しかしこの暑さを逃れようとして子供が現れた時、彼の世界は一変したのだ。
子供は植物……もはや妖精と呼ばれる存在になっていたその植物に気付くなり、こんな暗がりで咲いていたのでは可哀想だと言った。
そうして植物を傷抜けぬ様に注意深く土から掘り起こすと、そのまま懐に隠し、激しい滝飛沫の向こう、洞穴の外の世界に連れ出してくれたのだ。
優しい温もりを持ったその手のことを、植物はずっと覚えていた。
明るくなった世界は尚一層寂しさを強めさせ、その内植物は意識を飛ばして、自分を空洞の外へと連れ出してくれた子供を探す様になった。
それで、その子供が森のすぐ近くにある邑に住む里延と言う名の少年であること、早くに両親を亡くして後から邑に合流した、盲目の妹を抱えた身であること、普段は羊の放牧や羊毛刈りをして暮らしていることを知ると、次第にその生活を見守ることを楽しみにする様になった。
そんなある日のこと、里延が病にかかり、倒れてしまった。それは重い病ではなかったので、里延は無理をおして羊の放牧に出掛けて行った。
何日も何日も里延は頑張り、その苦しそうな様子に植物は段々と不安になってきた。
あんなに無理をして大丈夫なのだろうか。
あんなに辛そうなのに、どうして無理をするんだろうか。
やがて植物は理解する。
里延が無理をするのは、あの羊達のせいだ。羊がいるから里延は無理をおして遠くの丘まで出掛けなければならない。羊さえいなければ、里延は家でゆっくりと養生することが出来るのだ、と。
それで植物は、大地に張った自らの根を使い、里延の羊が放牧される丘の草に毒を含ませた。思惑通り里延の羊達は一頭残らず毒草を口にして倒れ、里延はようやく自由の身になったのだ。少なくとも、植物はそう考えた。
しかしそれは間違いだった。里延はそのことが原因で邑人達に責められる様になり、けれどその仕組みが分からない植物には、里延がただ、虐められている様に思われてならなかった。
だから里延を助けてやろうと思って、里延を虐めていた一番悪い奴……斗朴を、襲ったのだ。
斗朴は死んだ。そこまで酷い目に遭わせるつもりはなかったのだけど、逃げる途中で勝手に転んで頭を打って、それがもとで亡くなったのだ。
植物は別に悪いことをしたとは思わなかった。だって大切な里延を守ってやることが出来たのだから。
植物は、いつだって里延を見守っていた。だからそのうち、自分が何かするごとに里延の邑内での立場がまずくなっていることにも気付き始めた。
植物には理解できない。どうして、里延は皆に虐められるんだろう。里延が悲しいのは嫌だ。あいつらを全員こらしめてやろう。
植物の行動は、何もかもが裏目に出た。ただ里延と友達になりたくて(友達、と言う概念はその頃の植物には存在しなかったのだが)したことが、益々里延を苦しめた。
植物は悲しみ憤る里延の顔を見るにつれ、もしかしたら、自分は間違ったことをしたのだろうかと思い悩み始める。
自分が里延の為にしてやれる本当のことは何だろう。今更友達になってと話しても、里延は怒って相手にしてくれないのに違いない。だとしたら、どうすれば良い?
植物は悩んだ。これまでになかったほどうんうんと頭悩ませ、そうする内に、ある一つの結論に達したのだ……。
『里延がぼくをやっつけようとすると、皆が喜ぶ。だから、ぼくが里延に退治されたら、きっと皆は、里延のことを虐めなくなるよ。だけどぼくは、どうしたら自分がうまく退治されるのかが、良く分からない』
しょんぼりしながら(意思の疎通が出来る様になった途端、不思議と植物ののっぺらぼうの頭部から、表情が読みとれる様になった)語り終えた植物の妖精に、太公望と普賢真人は、無言で互いの顔を見合わせた。
成程、と思う。これで確かに話の辻褄はあった。
しかし……。
「まずったことになったのう。確かにこのままでは、里延の立場は変わらぬし」
「だからって、本当に彼を退治する訳にもいかないし」
植物に悪意はない。純粋に里延を助けてやりたいと考えているだけなのだ。
結果としては散々な被害を邑に及ぼしたが、しかしこうして事情を知ってしまうと、今度は簡単に退治して終わり、と言う訳にもいかなくなってしまった。
『ぼく、いいよ。あんた達はつよいから、ぼくを退治出来るでしょう。ぼくももう、里延を困らせたくないし』
うねうねと、健気にそんなことを言う植物に、更に二人はううんと唸って考え込んでしまった。
やがて太公望がぽんと手を打つと、短く言う。
「そうだのう、では、ひとまずこうせんか……」
「邑長、皆っ! 居たぞ、化け物はこっちだ!」
声に、一同ははっとして振り返った。
見れば森の陰から続々と、邑の男衆が数十名ばかり現れようとしている。
その先頭に立つのは壮年の男で、つい今しがた、まるで手柄を立てたと言わんばかりの大げさな声を上げたのは、どうもこの男らしかった。
「あやつ……!」
「仙道さま、助っ人に参りました! 化け物の住処さえ分かればあとはもうこちらのもの、皆で力を合わせて化け物をやっつけてやりましょう!」
おおっ! と男衆から歓声にも似た叫びが上がり、その音に、植物はびくりと身を震わせた。
「ま、待ておぬしらっ! この場はわしらに任せて、全員邑に戻るのだ!」
「何をおっしゃいますか、仙道さま。我々とてこの化け物には恨みがあります、親友・斗朴の恨みは是非ともこの手ではらさねば」
その言葉に、太公望は先頭に居る男の正体を悟った。と言うよりおおよそ見当はついていたのだが……恐らくこの男こそが、里延に辛く当たっていたと言う宋徳だろう。
太公望と普賢は、ほとんど同時に妖精を見上げた。その脳裏に、再び彼の声が響き渡る。
『ぼくを、やっつけて』
声は仙道である二人の耳にしか届かず、だから植物に抵抗する意思がないことを知っているのは、太公望達だけだ。
もともとどうすれば自らが退治されるのかと思い悩んでいた植物のこと、出来れば里延に退治されたかったのだろうが、少年の青銅の槍程度の攻撃では退治されてやることも出来ず……しかしこれだけの人数に一斉にかかられるのなら今度こそは。そう思ったのに違いない。
出来れば退治などせず、説得して仙人界に連れて行ってやりたい。
しかし状況がそれを許さない。
「望ちゃん……」
「分かっておる」
頷くと、太公望はぬおおおおっと姿勢を起こして邑人達を振り返った。
「まあ待て皆の衆! ここはわしが、あざやかにこの化け物を退じてくれよう!」
「ええっ!?」
驚いたのは宋徳だ。彼の目的は里延とこの化け物との関わりを明らかにすることだから、その前に仙道達が化け物を退治してしまったのでは話にならない。
「お、お待ち下さい仙道さま。その前にこいつにやらせましょう!」
声と同時に、遅れて到着した邑人の一群が、わっとこちらに駆け寄ってきた。
その中からぐいぐい押し出される様にして、里延が一同の前にまろび出る。
「さあ里延! ここでいつものようにこの化け物をやっつけるんだ! 最初にお前が退治すると言い出したんだから、勿論出来る筈だよな!?」
「ああ、出来るさ」
揶揄する様な宋徳の声に、答える声が険しくならないよう、懸命に努力しながら頷いた里延は、そのまま駆け足で太公望達のもとに駆け寄った。
やがて槍を構えて化け物に向き直ると、植物の妖精を睨み上げる様にして叫ぶ。
「さあ来い! 化け物!」
しかしその里延の叫びと同時に、太公望達の背後の滝壷の水が、突如ざっぱああーっと盛り上がった。
そのまま岩場に居た全員に向かって大量の水が雪崩の様に降りかぶるが、しかしそれより早くに普賢が一歩前に踏み出すと、宝貝・大極符印を前方にかざす。
途端に、一同に襲いかかろうとしていた滝水はさあっとかき消え、後には爽やかな風だけが残った。
「な、何が起こったんだ……」
「水が消えたぞ」
「滝水を水素と酸素に電気分解したんだ。この宝貝は元素を操る宝貝だから」
誰もがぽかんとする中、親切に答えたのは勿論普賢真人である。
ちなみに最初この水攻撃を受けた時にも全く同じ方法で防御したのだが、宝貝の存在を理解していない人間達にすれば、これはとんでもない『仙人の力』だ。
誰もが言葉をなくす中、しかしさすがにそんなことをしている場合ではないとすぐに気付いたのだろう、
「化け物の攻撃は仙道さまが何とかしてくれる、皆、あれを持ってくるんだ!」
誰かが叫んだのを合図に、奥からわっしょいわっしょいと弓矢が幾つも運ばれてきた。
植物の妖精は動かない。その様子は、仙道に力をおさえられて身動きが取れなくなった様にも見え、だからこそ里延までもが安心して、植物のすぐ手前から逃げようともしなかった。
やがて男衆は、運ばれた矢の先端に火をつけると、離れた位置から列を組んで、一斉に火矢を構える。
勿論、目標は植物の妖精で、滝壷の近くの岩場に居る太公望達には、風向きでちょうど避けられる程度の距離である。
「放て!」
邑長のかけ声と共に、数十本の火矢が弓から放たれた。
真っ直ぐに植物の妖精に向かい、突き刺さる。
やがて緑の妖精の身体に真っ赤な炎の色が広がり始め、太公望達の側にさえ、その熱さや火花が散る程の激しさとなる。
人々の攻撃は、まさに一方的な暴力となって植物の妖精を襲っていた。
里延が勢いに任せて投げた槍は植物の頭に突き刺さり、その間にも植物の身体は炎を宿して黒く変色してゆく。
無惨なその姿に、さしもの太公望と普賢真人も、黙視出来ずに一歩踏み出した。
けれどその時、
『これで、いいんだ……』
消え入りそうな植物の妖精の声が脳裏に響き、二人ははっとした。
『これで、里延は、もう虐められない……』
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