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「弥彦編」

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 勝負あり。
 信じられない動きで胴を決めた弥彦は、荒い息をつきながらもまっすぐに立ち、逆に勝利を確信していた筈が、一瞬にして逆転された水澤誠一の方は、呆然と道場に膝を折る。
 防具越しにも弥彦の打ち込みは相当強かったらしく、うつむいたままでげほげほとむせ込んだ。
「これで決まったな。あの暴言は撤回して貰うし、もう同じ様な文句は付けさせねえ」
「せ、誠一さんっ」
 慌てふためいた様子で誠一に駆け寄る門下生達。しかし伸ばされた彼らの手を払いのけると、誠一は怒りと屈辱とに顔を歪ませながら、弥彦を睨み上げた。
「て、めえ……」
「父親に見つからない様に片付けるんだろ。悪いけど俺も夜明け前に戻っておきたいから、早々に帰らせて貰う……ぜ……」
 ぐるり。と視線を巡らせた弥彦の言葉が途中で詰まった。
 反転させた視界の中に、中からこちらの一部始終を覗いていた二つの顔をばっちり認めてしまった為だった。
 咄嗟に固まる弥彦。勿論薫と剣心は素早く窓の下にしゃがみ込んだが、まさに「今更」であった。
 弥彦はぱくぱくと口を動かし、やがてようやくと言った顔で、
「か、薫、それに剣心まで……んなトコで何やってんだっ!?」
「え、薫さん?」
「嘘だろ……」
「ま、まずいよっ」
 弥彦の声に門下生達がざわめき出した。どうやら深夜の無断での果たし合いの件を、水澤禄助に告げ口されるのを恐れたのだろう。
 薫は咄嗟に声を掛けようとしたのだけれど、それよりも早く、道場の隅でゆらりと立ち上がる姿を認めて口をつぐんだ。
 誠一が、不気味な顔つきでこちらを睨んでいる。
「弥彦。話が違うぜ、これは内密の果たし合いだった筈だな」
「待って、違うの。私達は弥彦に内緒で、勝手について来ちゃっただけでっ」
 思わず声を上げた薫に、けれど誠一は暗い表情のままにやりと笑い。
「そうか。分かったよ、お前の魂胆が。わざと自分の師匠を呼んで、勝負の結果に関係なく、自分が勝った、証人はこの女だって周りに放言するつもりだった。そうなんだろ!?」
 我を失う。そんな顔で誠一はがなった。
 自分で何を言っているのか分かっていないのかも知れない。
「そんな真似はさせないぞ。今日はたまたまお前が勝っただけだが、水澤道場の師範の息子に勝ったとなりゃ、そりゃデカイ顔が出来るよな? お前ん所の道場の株だって上がるだろうよ……だけどこんなのはまぐれだ、俺は認めないぞ! 何だって女の師範代についてるお前なんかにっ」
 はっ、と。
 それまで無言で誠一の様子を見つめていた筈の弥彦が、この時初めて表情を歪めた。
 そこにあるのは明確な、怒り。
 一瞬の間をおいて弥彦はくるりと誠一に向き直った。そのまま早足で誠一に近付くと、今にも殴り掛かりそうな距離で足を止め、眼光鋭く誠一を睨む。
「もう一度言ってみろよ」
「ああ、何度でも言ってやるぜ。良いか、弥彦。お前がそのつもりなら、俺にだって考えがある。どんな方法を使っても神谷道場を潰してやるらかな。嘘だと思うなよ、俺なら出来るんだ。簡単に道場の一つや二つ、潰せるんだぞ!」
「……お前、馬鹿か? 勝負に負けたら相手のまぐれ、んなコト言ってるからまともにこの道場に向き合えねぇんじゃねえか」
 薫は驚いて弥彦を見た。冷ややかな声は、普段なら怒ればすぐにがなる弥彦のものとは思えない程落ちつき、しかしそれ故に怒りの深さが伝わってくる。
「お前が何をしようと俺には関係ない。今回負けたことが恥ずかしいなら、お前の得意の方法で嘘を周りに広めたって構わねぇよ。だけど約束は約束だ。神谷道場とうちの師匠のことを、馬鹿にすんのだけは絶対に認めねぇ!」
 怒りにまかせて叫んだ弥彦は、しかしこの直後、はっとした様子で窓の向こうの薫を振り返った。
 その顔には何だか呆けた様な表情があって、薫がぽかんとして見ていると、やがて見る間に真っ赤になってしまう。
 そのままぷいと顔を逸らされて、薫はひどく面食らったのだが……よくよく見れば弥彦の横顔には大きく「しまった」の四文字が刻まれていて、だから薫にもようやく、ことの事情が呑み込めた気がしたのだ。
 今の言葉と、弥彦の様子からして。まさか。
「弥彦、あなた」
「あ、あのっ」
 しかし。言葉を掛けるより早く、急に袖を引かれて薫は窓から顔を離した。
 見るといつの間に道場から出て来たのか、泣きそうな顔つきの門下生達が、夜闇に紛れる様に俯いて薫のすぐ脇に立っている。
「お願いします。このこと、先生には内緒にしていて下さいっ」
「こんなことが知れたら俺達……」
「誠一さんに頼まれたから、断れなかったんです。お願いしますっ」
 口々に言うと、三人の門下生達は一斉に薫に泣きついた。
 時折ちらちら窓越しの道場を見やる辺り、誠一の方も気になるらしい。恐らく頭の中で天秤に掛け、恐らく尤もまずい立場になるのを避ける為にも、優先順位的に薫を選んで謝罪に入ったのだろう。
 子供と言うのは案外打算的なものである。
「貴方達……」
 さすがの薫も呆れたが、泣き顔のそれぞれを見ればいずれの子供も、弥彦と同じか、下手をするとそれよりも年下と言った様子なのだ。
 それにしてもこの態度は情けないが……。
「いいこと、貴方達。私も無断で忍び込んだ立場だから、あんまり強くは言えないけど」
 ぽん、と。しゃがみ込んで目線を合わせると、薫は門下生達の肩を叩いて、それぞれの顔を厳しい顔つきで睨んだ。
「幾ら道場主の息子さんに頼まれたからって、何をしても良い訳じゃないのよ。貴方達が自分でいけないことだと判断出来たのなら、すぐに断らなきゃ。この道場で習ったことは、剣術だけじゃない。心を鍛えよ、と先生はおっしゃった筈ね?」
 しゅんとした様子でうなだれる門下生達。やがて彼らは全員揃って顔を見合わせ、ひどく申し訳なさそうな顔で呟いた。
「ご免なさい、薫さん……」
「私に謝らなくても、本当なら水澤先生に」
「違うんです。俺達、薫さんのこと悪く考えてて、女の道場主なんか飾り物だって誠一さんが言った時、一緒になって騒いだんです。それに……それに、その」
「ブスとか言っちゃいましたけど、薫さんはそんなことありませんっ」
「……は?」
 思わず真っ白になる薫。ブス? ブスって何? 
 だが咄嗟に剣心に意見を求めようとして、薫はぎょっとした。
 剣心の姿がなかったのだ。
「あれ、剣心っ?」
「ちっくしょおおっ」
 そうして。薫が立ち上がった時だった、道場からとんでもない叫び声が響いてきたのは。 声の大きさに驚いて、薫は道場を見た。
 同時に、それが視界に入る……抜き身の刀が、道場の明かりに反射した不気味な光が。
 それまで悔しげに震えていた誠一が、咄嗟に道場にあった刀を掴み取り、抜刀して鞘を道場に放り出していたのだ。
 そうしてその視線の先にいるのは、
「弥彦!」
 はっと弥彦が振り返る。
 鬼気迫る顔つきで真剣を振りかぶる誠一……避けるのにはタイミングが悪すぎた。思わず悲鳴を上げた薫に、次の瞬間、
「やめんか、誠一!」
 道場に轟く程の声が、それを留めた。
 何が起こったのかさえ理解出来ないまま、はっとして道場の入口を返り見る一同。
 そうして集中した視線の先には、水澤道場の主・水澤禄助その人が、威圧感さえ漂わせながら静かに立っていたのだった。






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