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「デッド・トラップ」
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- 絶望、という言葉の本当の意味を、ナギは知らずにいる。
それを知る為には高望みという言葉を知る必要があったから。自分の手にはなかなか入らない何かを切望して、もう死んでしまうんじゃないかと思うくらい欲しがって、努力して、その何かが眼前まで近づいた時に奪われしまうこと。
それが、絶望。
ナギは絶望する程何かを望んだことがない。かわいそうとか哀れみとか、そう言ったことではなくて……何の感情も含まない現実の中で、それは一つの真理だった。
いつでも自分に見合ったものを必要とし、手に入れる。
今手に入らないものでもいつかは手に入るかも知れなかったし、手に入らないのならそれは自分とは縁のなかったものなのだと、そう思えば絶望など知る必要もなかったから。
急ぎ足のまま寮に戻り、ベッドの下に潜り込ませておいたスーツケースを引き出すと、ナギはその中からブービートラップと盗聴器とを取り出した。
もはや迷っている段階ではない、あんな形でノイマンが動いた以上はすぐにも任務を遂行しなければ……抹殺、を。
はっと、ナギは自分の手を見下ろした。
震えている。
どうして震える必要があるのかと思って、そうしたら自分の中にある深い苛立ちにぶつかって躊躇いが生まれた。
(私は何を……)
考えているのか。
気付いてはいけない、と思った。それは無駄なことだ、けれど苛立ちが消えなかったのでナギはいささか乱暴に思考を断ち切った。
必要のないことや無駄なこと、そんなことは全て消してしまえる。
ペルソナに戻りさえすれば、記憶操作で簡単に……なかったことに。
ひと呼吸ついて立ち上がると、ナギは慎重に隣の部屋に向かった。
エリノアが留守をしていることは、既に調査済みだ。
改造したIDカードでドアを開き、用心しながらも楽に室内に侵入したナギは、思ったより片付いた室内を一瞥してふっと吐息する。
ブービートラップを仕掛ける前に、まず小型の盗聴器を防水シートに包んで口の狭い花瓶の内側に取り付けた。
次にベッドと枕に毒針を仕掛けると、顔を上げた拍子にサイドテーブルの上の写真立てに気付く。
そう言えばここに初めて顔を出した時、苦しむエリノアの横にあったその写真立てには何の写真も入っていなかった。
珍しく純粋な興味が湧いて、ナギはそれを手にとってみた。
空の写真立て、それなのにとても大切そうにベッドのサイドテーブルの上に置いてある。
(それとも中に写真以外のものが)
手に取って、奥に何かが挟まっていることに気付いた。
引き出す前に微かに見えた紙片の角……写真だ。
確認するつもりで引き出し、ナギは思わず息を呑む。
写真に映っているのは幼い子供の姿。あどけなさを残すその顔には、けれど現在の面影が確かにあった。
僅かに冷えた眼差しをした、幼い頃のカイだ。
(どうして?)
写真立てを握りしめる。
分からなかった。いつも一緒にいて嫉妬して、誰の目から見ても真剣に想っているのだと分かる位好きな相手の写真を、何故表に飾らずに隠し持つ必要があるのか。
恐いから。
まるで湧き出る泉の様にそんな言葉が浮かんできて、その途端にナギは突然の吐き気に襲われて俯いた。
怖いから、失うのが。
(エージェントの癖に……どうしてこんな心を持つ必要があるの)
写真をこっそりと隠して、でも側に置いておきたくて、だから写真を潜ませた写真立てを枕もとに置くエリノアの姿が浮かんだ。
ぞっとした。
必要のないことなのに、何故エリノアはこんな想いを大切に強めるのだろう。
ナギは写真立てを慎重に元あった場所に戻して部屋を出る。
怪しまれない様に室内を元どおりにして、後は脳裏に広がるノイズの様な混乱に戸惑いながら廊下を歩いた。
(もうこれ以上、あの二人に関わっちゃいけない……)
自分の中の警戒はそこにあったのかと。
走って自室に入ったナギは、その場にへたり込みながら深く吐息する。
考えたくないのに。邪魔になるだけなのに。
なのに答えはすぐそこまできていた。
だからナギはそれを恐れるのだ。恐れる……?
そう。ナギは恐かった。
自分の命の終わりも、終わらせることも。
恐いと感じたことなど、今まで一度もなかったのに。
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