デッド・トラップindex > 5

「デッド・トラップ」

<4>
 扉の横手にあるネームプレートに“エリノア・メーベ”と表記された部屋の前で。
 とりあえず忍び込んで来た自覚のあるカイがすぐに扉をノックしたが、中からの返答がない。
「留守でしょうか」
「いや、んな筈ないんだけどな」
 再びノック。やはり反応はない。
「いないみたいですね」
「何か俺いやーな予感がしてきた」
「え?」
 何事かと見守るナギの眼前で、カイはノブを握ると勢い良く扉を開いた。カギはロックされていなかったらしい。
「おい、邪魔するぞ」
 言うなりカイはナギを置いてすたすたと部屋の中に入って行った。
 どうしようかとつかの間躊躇してから、ナギも結局カイの後から部屋に入る。ぎょっとして立ちすくんだのはその直後だった。
 一瞥した室内。ベッドのあるフローリングの部屋の中、壊れた花瓶、裂かれて床にまで垂れ下がるカーテン、それにありとあらゆる家具が倒れているのが見えたのだ。
 慌ててカイを探すと、彼はベッドの側にしゃがみ込んで険しい顔をしている。
「カイさん。その人……」
 覗き込んだカイの腕の中で、制服姿の少女が背をまるめてうずくまっていた。
 意識はあるのか、必死になって金色の髪を振っている。
「悪いナギちゃん、そこんとこの薬取って貰えないか。写真立ての前に転がってるやつ」
「あ……はい!」
 ベッドのサイドテーブル。革の写真立ての側に散らばる薬と注射器を見つけて、ナギは慌てて薬を握った。
 ちらりと見ただけのその上には、既に錠剤が抜き取られた空のアルミケースと色とりどりのカプセル、ビニールに入った白い粉薬まで乗っている。
 けれどそれらを見咎める間もなく、ナギは掴んだ薬を慌ててカイに手渡した。ついでにベッドの枕もとにミネラルウォーターのペットボトルを見つけて、それも渡す。
 カイの横顔は驚く程かたく、そこには先刻まで見せていた脳天気な様子など微塵もなかった。
 その膝の上で、額に脂汗をにじませながら苦悶の表情であえぐ少女の口元に薬を寄せると、カイは軽く少女の頬を叩いた。
「エリッシュ。薬だ、飲めよ」
「あの、誰か呼んだ方が良いんじゃありませんか」
「悪いけど人呼ぶのはマズイんだ。医者が来てどうなるもんでもないし」
「でも……」
 彼女がエリノアなのだろうか。
 かたく唇を結んだまま一向に薬を口にしようとしないその少女は、不思議な位整った顔立ちをしていた。
 けれどその顔には何故か幾筋もの掻き傷が見える。浅い傷の先には綺麗に磨かれた少女自身の爪が添えられていた。
 カイがその手を放そうとしても、少女はきめ細やかな肌に爪を立てたまま動かそうとしない。
 時折ひきつる様な小さな悲鳴と共に顔を掻こうとする辺り、この行為も無意識のものなのかも知れなかった。
「……ナギちゃん、もっかい悪いんだけど、ベッド片付けて貰えないかな。手前の方」
 顎でぐいぐいとベッドを示す姿に、ナギはとりあえず辺りに散らばったシーツや枕を拾い上げて整える。
 振り返るとカイが薬と水とを口に含んだところで、そのまま彼はためらうことなくエリノアに口付けた。
 一筋その唇から水がこぼれたものの、やがてこくんと喉が動いて、ようやく少女が薬を飲み込む。
 それだけ確認すると、カイは素早い動作で倒れたままの少女を軽々と両腕に抱え上げ、整えられたベッドの上に寝かせ付けた。
「……あー焦った……」
 横から少女の顔色を伺うと、ほとんど真っ白だった顔には赤みが差し、息も落ち着いてきているのが分かった。
 頬の掻き傷は痛々しかったけれど、残る程の傷跡ではない。
「どこか悪いんですか、エリノアさん」
「ん、まあね。こいつ前にも騒ぎ起こしててさ、今回人呼ばれたらヤバかったんだ、実は」
「ヤバいって……医務室で見て貰えば良いじゃないですか」
「病気とかじゃないんだ。精神的なもんだから、定期的に薬飲むしか方法がない」
「……それで、この薬の数?」
 幾つも薬の乗ったサイドテーブル。
 エージェントとして受けた教育の中でも医学は重要な項目だったので薬に関する知識はナギにもあったが、この数はさすがに異常だ。
「大丈夫なんですか?」
「鬱病の気があるみたいでカウンセリング受けてるって話は聞いてたんだけど。でもまあ確かに多いよな、この薬の量は」
(鬱病)
 多すぎる薬。注射器。
 ふと薬の奥に置いてある革の写真立てに視線を遣って、ナギは軽く瞬きする。
 覗いた窓の部分には、何の写真も入っていなかったのだ。
(空の写真立て?)
「どうする、ナギちゃん。こいつしばらく起きられそうにないけど」
「カイさんは、どうされるんですか」
「もうちょっとこいつ看てるよ。どうせ外が静かになるまではここ出られないだろうし」
 ちらりとエリノアに視線を移す。
 その仕草に、ナギもそちらを見遣って緑の瞳をかすかに細めた。
「じゃあ、また明日伺うことにします。急ぎの用と言う訳でもないし」
「そっか。じゃあエリッシュが起きたら伝えとく。それから、今あったことなんだけど」
 ひと呼吸おいて言葉を濁らせたカイに、ナギはこくんと頷いてみせた。
「事情は分かりませんけど、ここであったこと内緒にしてる方が良いのなら黙ってます」「助かる。あ、あとさ、ナギちゃん自分がどのクラスになったか分かる?」
「私なら、A−2クラスだったと思います」
「おっし。じゃあ明日からクラスメイトってことになるな、俺もそこだから」
 ここ<白い塔の学園>では、成績順にクラスが決まっている。
 勿論オーソドックスにAから成績優秀者が並ぶのだが、その中の2クラスに所属するのであれば、まず人に誇れる成績と言って良い。外からの編入であると言うのなら尚更である。
 ナギは直接テストを受けた訳ではない。だがこの程度の成績ならクリア出来るだけの教育を受けているので講義については心配ないが、クラスによっては講義内容もがらりと変わってしまう。
 その中でA−2クラスにカイも入ると言うことは……。
(軽い人みたいに見えるけど、この人やっぱり優秀なんだ)
「どの講義取ってるのかは知らないけど、ダブってるやつあったらよろしく。俺も声かけるからさ。それから今日は助かった」
「……いいえ。それじゃまた、講義の時に」
 扉の前で苦笑しながらそう返すと、ナギは静かに部屋を後にした。


* * * * *


 ぱたんと。
 ドアの閉まる音と同時に、エリノアの瞳が開いた。
 うつぶせに横たわったまま掻き傷だらけの顔を枕に押しつけて、けれどその隙間から覗く青の瞳にはもう苦渋の色はない。
 はっきりと自分を取り戻した様子でエリノアはじっと枕もとに座るカイの背を見た。
「……今のがナギよ」
 呟く声に、カイは眉一つ動かさない。
「知ってる。自己紹介して貰った」
「違うったら。分かってるくせに言わないでよ、あの“ナギ”なんだってばっ」
 端正な眉が吊り上がる。どこかすねた様に身を起こしたエリノアは、黙ったままのカイをじっとねめつけた。
「ねえ。まずかったんじゃないの、あたし達が知り合いだって話したの」
「いーや、下手に隠すよりゃ良いだろ。どのみちバレることなら早いうちに話してた方がまだ疑われずに済むし。大体知り合いでもないのに、いきなり俺がお前の部屋に忍び込んで来たって方が怪しいしな」
「わーざと部屋間違えた癖にっ!」
「けど俺と同じ日に編入してくるとはね。お前と接触する前に何とかしたかったんだけど」
「ナギをここに連れて来たの、確認の為なんでしょ。何をいまさらーって感じ。まあそのお陰でちょっと得しちゃったけど」
 暗に口移しの薬の件について言っているらしい。
 気付いているのかいないのか、カイはその部分のセリフだけを見事に無視して、
「……お前しか“ナギ”の顔知らないんだから、仕方ないだろーが。でもまああいつがナギ本人だって分かったことだし、後は俺が」
「ちょっと待って!」
 言い掛けた途端、顔色を変えたエリノアがカイを睨む。
「交替はナシよ。こんなことで降ろされるなんて、あたし我慢できないんだから」
「また発作起こした奴が何言ってんだ」
「すぐに治まるわよ、カイだってそう言ってたじゃない」
「……薬の数が増えてんだろーが。シャレになってねーぞ、お前」
 ぽん、とカイがエリノアの頭を軽く叩く。その仕草にエリノアは頬を膨らませてそっぽを向いた。
「言っておくけど、薬は全部ドクターが出したのよ。怒るならあいつに言ってよね」
「あンのヤブ。何飲ませるか分かったもんじゃねーだろーが」
「一応、貰った薬はすぐにチェックしてるってば! そんなことよりカイ、アイツのこと、どう思った?」
 不意に表情を変えて切り出したエリノアに、カイは軽く溜息をつく。
「話に聞いてたのとは随分印象が違ったな」
「どこが」
「匂いがない。大抵の人間はどれだけ隠しても匂いがあるだろ、表面を取り繕っても分かる何かがある。なのにあいつの場合は」
「それがナギなの。記憶操作の末の、たった一つの成功例なんだから」
 吐き捨てる様にエリノアは言った。
「だまされないでよカイ。ナギはどんなものにも成れる子なの。それが記憶操作だから」
「成功例ね。やなこと考える馬鹿がいるもんだよな」
 とん、とほとんど反動もつけずにベッドの上から立ち上がると、カイは小さくあつらえてある窓に進んだ。
「とにかく今回の仕事は俺が片付ける。お前は早いうちにここを出るか、仕事に一切関わらないって約束するかしろ。分かった?」
 言うと同時にカイは素早く横手に逃げた。
 その残影を狙って枕が飛んできたのは次の瞬間のこと。
「……エリノアっ」
「い・や・だ。絶対に嫌だからねあたし。カイとナギ残して学園出るなんて許せないし、そもそも黙って見てるなんてあたしの主義に反するんだから」
「主義よりおシゴト優先だろ」
「……分かってる。くだらない私情で目的を見誤るなんてこと絶対しないわよ。だから部外者にだけはしないで」
 すがりつく様な視線がカイの背に突き刺さる。
 振り返ってエリノアの表情を見たカイは、しばしの沈黙の後、大仰に肩をすくめてみせた。
「上にはお前から連絡入れとけよ。結局おコゴトくうのは俺なんだからさ」




page4page6

inserted by FC2 system