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「ジリエーザ」

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 ルティカが不安がるので、俺と彼女はカーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で、向き合ったソファに腰掛けながらコーヒーをすすった。
 暖房の類も一切止めてしまっているのか、室内はいやにひんやりしている。
 そう言えば外の庭はどうしたのかと尋ねると、芝をそのままにしておけば不審がられるので、短時間で簡単に刈っただけなのだと教えられた。
 熱いブラックを飲んでいると、心の芯から落ち着きが広がって行く様だ。
 と言うより落ち着きを失っていたのはむしろルティカの方だったのだが、かと言って俺が完全に冷静だったとも言いにくい。
 何しろ国家のVIP暗殺の話を聞いたのだ、冷静でいられる方がどうかしている。
 その上ルティカはペルソナを脱走しようと目論んでいる最中なのだから、俺達はいつ刺客に襲われてもおかしくない状況下にある。
 以前も遺伝子操作の実験体である子供が、母親と共に施設を脱走しようとして殺されたことがあったのだと聞かされた時、俺にはぴんときた。
 恐らくルティカが研究員らしき男と言い争っていたのは、それが原因だったのだろうと。
「……私、あんまり優等生じゃなかったの」
 何故父の反対を押し切ってまで遺伝子操作プロジェクトに関わったのか。
 尋ねた俺に、ルティカはゆっくりとそう切り出した。
「そりゃ、一般の学生よりは出来た方だったと思う。学校でもほとんど成績はトップクラスだったし……でも駄目なの。ミハイル・ノイマンの娘としては、それだけじゃ駄目だったのよ。博士号も取ったけど、選び抜かれた人間の仲間入りなんて出来なかった」
「それで遺伝子操作された子供を?」
「私みたいに期待に押し潰されることのない様に。ナシェルは一生言われ続けるのよ……私の息子じゃなくて、ミハイル・ノイマンの孫だってね。どれだけ努力したって得られないもとからの才能ってあるでしょう。私にはなかったけれど、せめてナシェルには用意してあげたかった。出来るものなら、最初から、苦労なんかしないで済む様に」
「何でも出来るってことが、幸せじゃないだろう」
「……貴方みたいに?」
 そう言ったルティカの青ざめた頬に浮かぶのは、笑みではなく、泣きそうな表情だった。
「聞いたわ。カターチェニで一、二を争う成績を残したジリエーザ。まるでエージェントになる為に生まれたみたいに優秀だった貴方が、何故脱走なんて真似をしたのか」
「ベルデ代表は、余程のお喋りだな」
 苦々しく呟く。
 彼女が遠回しにアナーシアのことを言っているのだとはすぐに分かる。
 だが問題は、俺がカターチェニに居た頃の評価や愛称まで、彼女が知っていると言うことだ。
 他の職業はともかく、俺達エージェントはコードネームを知られることを嫌う。と言うより仕事を遂行する以上、名前が売れるなんてことはマイナスにしかならない。
 仕事の結果報告のデータ上には名前なんて載せないし、売れて万歳なのは組織の名前だけなのだ。
 大体依頼人は組織に協力を求めるのであって、エージェント個人に仕事を依頼するなんてことはまずあり得ない。
 フリーでこうした仕事をしている人間相手になら話は別だが、厳しい組織分けされたエージェント業界では、そもそもフリーで動くエージェント自体が数える程しか居なかった。
 そのため、データをハックするか同じ組織に所属しない限り、エージェント個人の成績なんて一切外に洩れない筈なのだ。少なくともルティカ個人で調べられる様なデータじゃないし、そもそも俺の過去なんて言うオリジナルのデータ自体が存在しない訳だから、あのベルデがペルソナのネットワークを利用して収集したデータを彼女に流したとしか思えない。
「大切な人を失ったのね。それで自暴自棄になったの? 初めて会った時から貴方は何も知ろうとしなかったけど……それは、悲しみから逃げようとしていたからなのかしら」
 哀れむ様な口調ではなかった。むしろそれは俺を糾弾する様な静かな声で。
 だから俺は、素直に答えることが出来たのだ。
「そうだな……そうかも、知れない。でもようやく分かったよ。時が悲しみを癒す最善策だと思っていたのに、そんなのは何もならない。目をそむけて時間が過ぎて、それで終わりだと思っていた俺がどんなに愚かだったのかが」
「時間を置いても、いつか原因を振り返った時に感じる苦痛には何の変化もない。ただ時が止まっていただけで、悲しみを先伸ばしにしてるだけ。感情を失いたいのなら繰り返し悲しみを思えば良いんだわ、感覚が麻痺するまで。忘れたいのなら、向き合えば良い、それを越える何かを捜せば良い」
「悟ってるんだな」
 苦笑しながら答えると、ルティカは僅かに気取った様子で首を傾けて見せた。
「年の功、でしょ。私貴方より幾つか余分に生きてるもの」
「……失わないと分からないなんて、ひどい話があるもんだよ」
「アナーシアを、愛していたのね」
 そっと頭上に熱を感じて、顔を上げればすぐ眼前にルティカの瞳があった。
 まるで泣けない俺の代わりの様に、彼女の双眸は濡れていた。
「愛していたのに殺したのね。だから、取り返しがつかないし誰も責められない……自分を責めるしかないと思ったの?」
「違う」
 俺の声は情けない位に低く掠れていた。
 自分でもそう思う位だから、もしかしたらルティカには、ほとんど聞き取れなかったんじゃないだろうか。
「アナーシアは、知ってたんだ」
「え?」
「俺はアナーシアと親しかった。だから選ばれたんだと思ってた。彼女が油断して隙を見せるだろうから、だから俺だったんだってな。だけどそうじゃなかった、俺がどんなことにも心を動かさない“ジリエーザ”だったから、上は俺を刺客に選んだんだ。知らなかった……彼女は最期まで笑っていたし、逃げなかった。彼女が何のプロジェクトに関わる人間なのか、思い出せればすぐに分かっただろうに。アナーシアは……彼女は、テレパシストだったんだ」
 人の心を読むことの出来る能力。
 だから彼女は人を思いやることに長けていた。側にいる人間の心が分かったから。悲しみや喜びが理解出来たから、まるで自分のことの様に。
 俺が幼い頃カターチェニを脱走しようとして失敗したあの時。
 軟禁された場所に現れたアナーシアの表情が何であったのかを、俺はようやく理解したのだった。
 何故彼女が俺の心を読んだように泣いていたのか、何故ひと目見て全てを察してくれたのか。
 みたい、じゃない。
 実際に読んでいたのだ、彼女は。
「俺はずっと彼女の側にいた。彼女が気付かなかった筈がないんだ。それなのに逃げなかった……最期の瞬間でも、アナーシアは抵抗しなかったんだ」
 亡くなったアナーシアについて、カターチェニ上層部は“教官と情交を持った候補生を処刑した”のだと報告した。
 誰もがそれを疑ったが、上に逆らう奴なんていなかった。
 どうしてなんだ、アナーシア。
 殺意を隠しながら君に近付いた俺は、上層部からの一方的な暗殺指令に従う愚か者だったのに。
 何の動揺も迷いもなく、ただ彼女が上司と結託してプロジェクトの解散と、カターチェニ脱走を企てていたからこその処刑命令だと。
 そんな理由を聞かされて、平然と俺から死を与えることが君への優しさだと勘違いして。
 そんな俺を、どうして許した。
 何故逃げずに留まったんだ。
「脱走なら俺だって考えたさ。無理にカターチェニに放り込まれてすぐの頃、一度は逃げた。なのに俺は見逃せて、何故アナーシアには処刑命令が出たんだ」
「貴方が優秀だったからでしょう。ついてたわね」
「生きて人殺しになることがついてることか?」
「それは貴方が決めることだわ」
「……俺は、あの時死にたかった」
 まだ中身の入ったカップを、ルティカは俺の手からそっと取り上げた。
 俺はひどく混乱したまま、顔も上げられなかった。
 アナーシアはきっと気付いていた。
 俺の醜い心に。
 全部知っていた筈だ。
「かわいそうなトキ」
 そっと包み込む温もりに顔を上げる。
 それでも俺の目が渇いているのを、やはりルティカは涙をためた瞳でじっと見つめていた。
「泣くことも忘れてしまったの? 涙は心を少しでも軽くする為り大切な浄化薬なのに。人にとって、必要不可欠なものだわ。それなのに貴方はそうやって、いつまでも消えない苦しみを抱え続けるつもりなの? 自分を責めることが償いだと……そう思っているの」
「涙なんて」
 何て馬鹿馬鹿しい言葉なのだろうかと、渇いた心の一方が思う。
 楽になる為の行為がそんなものだと言うのなら、人は楽になれば弱くなると言うことじゃないか。
 俺は感情をコントロールする為のST訓練だって受けている。
 それはエージェントにとって感情がいかに不必要なものであるのかを如実に物語っていた。
「じゃあ貴方は、どうやって苦しみを癒すの」
「癒す……」
「それとも、癒せないから死にたい? 今まで心を殺して逃げてきて、それも限界になったから今度は死にたくなったの。もしそうなら、貴方が選択したのは最低の方法だわ。死んでしまえば確かに楽かも知れない、それでも」
 囁く様な声は涙に震えて、それでもしっかりと俺の耳に温もりを落として行く。
「死んでしまったら、もうこうして暖め合うことだって出来ないのよ?」
 ふわりと俺を抱き寄せた柔らかい身体に、俺は何の抵抗も感じなかった。
 そこにはただ安らぎがあった。本当は誰にもある筈の慈しみがあふれていた。
 暖かさは人を弱くする。けれどルティカはこうして今まで生きてきたのだ。孤独を埋める為に、色々な人間と肌を重ねてきた。
 そう……俺が静かに心を殺して「ジリエーザ」に近付いて行った様に。
 それはどちらも辛さを緩和する為の手段だったから。
 優しい、触れるだけの口づけを繰り返すルティカを、俺は引き寄せた。すっぽりと包み込めてしまう小さな身体をソファに横たえると、俺達はむさぼる様に互いを求め合う。
 刹那的な安らぎを求める子供じみた抱擁の中、それでも俺達は、束の間寒さを忘れられたのだ。







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